河原に落ちていた日記帳

趣味や日々の暮らしについて、淡々と綴っていくだけのブログです。

【読書備忘録】3月に読んだ本メモ

 今年も既に4分の1が終わってしまったという事実がじわじわと効いてくる季節です、どうもこんにちは。

 今月は私の周囲で割とバタバタすることがありまして、あまりじっくり本を読んだりする時間がなかったのですが、せめて普段の習慣としての読書日記は綴り続けていきたく思っています。

 今月読んだ本は、以下の通り。(順番は一部を除き読了した順)

 

 

民俗学の思考法:〈いま・ここ〉の日常と文化を捉える方法と課題 (講座日本民俗学)

◎岩本道弥ほか編『民俗学の思考法 〈いま・ここ〉の日常と文化を捉える』2021年、慶應義塾大学出版会

◎小川直之・新谷尚紀編『講座日本民俗学① 方法と課題』2020年、朝倉書店

 最近、民俗学の概説書が立て続けに刊行されていますが、それらを読み比べると研究者ごとに学問への理解にかなり相違があり、それがけっこう面白かったりします。中でも上に挙げた2冊は、民俗学として目指す学問の方向性の両極を示しているように思います。

 まず前者の『民俗学の思考法』は、副題にもある通り社会や生活の現在的な変化を重視する「現代民俗学」の立場で書かれています。民俗学の学問としての起点は、グリム兄弟など海外のフォークロア研究が始まりとして設定されており、日本だけでなく海外の「民俗学(Folklore)」の状況にも目を配られていることが全体的な特徴です。

 一方後者の『講座日本民俗学』は、どちらかと言えばクラシカルな民俗学の流れを汲むものと思います。民俗学史の始まりは、近世期の貝原益軒菅江真澄などの活動が挙げられており(第1章1節)、民俗学は「Folklore」ではなく「民俗伝承学(tradition populaire)」である、と主張されています(第2章2節)。

 こうして見比べてみると方向性の違いが如実に表れており、学問とは実に面倒なものであるとはっきり認識できます。私などは民俗学にも学派が色々あるんだナァと単純に考えていますが、初学者は混乱しそうだとも思います。

 2冊はともに複数の研究者が寄稿している論集であり、中にはどちらにも論考を寄せている人もいるので単純に学派で割り切れない部分はありますが、それにしても全体として学問自体の理解に相当な距離があることは確かです。私としては、どちらの方が正しいのかは安易に決めつけることはできず(あまり学問としての「正しさ」にも興味がないので)、恐らく民俗学は「複数」存在すると考えるのが妥当なのかもしれません。

 思えば、民俗学では「柳田民俗学」や「折口民俗学」など、主導的な役割を果たした研究者の名前を冠した呼び方がたびたびなされてきました。その傾向は、存在感のある研究者の個性に依存してしまう学風であることを示しているような気がするのですが、今現在においても「島村民俗学」や「新谷民俗学」といったものが存在するのかもしれません。

 しかし混迷を深めていく現在の状況の中で、これらの民俗学はどのような変化を遂げていくのか、密かに見守りたいとも思っています。

 

◎F・W・ホリデイ(和巻耿介訳)『古代竜と円盤人』1973年、大陸書房

 UFO同人誌の『UFO手帖』第6号にて掲載されている書評を読み、気になって古書で入手した本。タイトルや出版時期、出版社から分かると思いますが、中身はガッチガチのオカルト本です。

 その内容は、ネッシーなどの未確認生物を追うUMA研究*1と、古代遺跡から宇宙人の痕跡を見出す宇宙考古学とを悪魔合体させた、オカルト本の中でも特に奇怪なもの。

 最初はネッシーの話題に始まり、その周囲の沼沢地で目撃されたUMA調査の様子が描かれています。目撃者へのインタビューはかなり詳細に記述されており、それはそれでかなり興味深い記録になっているのですが、中盤辺りから突如空気が激変。古代の遺物を全て、UFOの実在を示す証拠だと繰り返し主張する超展開に。

 動物学者や考古学者などアカデミズムを執拗にこき下ろし、パラノイア染みた自説をひたすら開陳した後に導き出された結論とは、要するに「UFOとUMAは本質的には同じ現象である」という真実だったのです! わお。

 本書は「ネッシーは実在する」「UFOは宇宙人の乗り物である」という凡百の見解を述べるものではありません。皆様も是非、「それら超常現象は全て繋がっているのだ」という世界の〈真実〉に迫り解き明かそうとする、著者の狂気すら覚える熱意に圧倒されて下さい。

 ちなみに本書、1991年に角川書店から『奇現象ファイル』という全く違う邦題で再刊されているので(恐らく翻訳も同じ)、購入の際はご注意を。

 

マンボウのひみつ (岩波ジュニア新書)

◎澤井悦郎『マンボウのひみつ』2017年、岩波ジュニア新書

 異様な生物研究(?)の本を読んだので、その口直しにと思い読んだマトモな生物学の本です。

 テーマはずばりタイトル通り、マンボウ。その姿かたちをたいていの人は知っている馴染みある魚ですが、よくよく考えるとあんな奇妙なフォルムの魚ってそうそういません。

 そこで本書を読んでみると、ますますマンボウという魚の特異さが浮き彫りになってきます。進化の末に魚の色々なパーツが省略されていることや、意外と謎に満ちた生態など、興味深い話題の尽きない魚です。個人的には、「マンボウの泳ぎ方を90度傾けるとペンギンと同じ泳ぎ方になる」という話には膝を打ちました。

 ちなみに著者はTwitterで積極的にマンボウ情報を発信されている方で、Twitterをやっている人なら一度はTLで見かけたことがあるかもしれません。本書でもTwitterでの印象と同じぐらいマンボウ愛が爆発しており、生物としてのマンボウに関する知識はもちろん、マンボウ料理や人間がマンボウに託したイメージ、また「生物最弱」と言われる都市伝説など、子供向けレーベルとは思えないくらい情報量の濃い一冊になっています。

 

水銀奇譚

牧野修『水銀奇譚』2007年、理論社 ※画像はKindle

 高校生たちを主人公とした、青春オカルトホラー小説です。

 子供が大人へ成長していく時期に特有の、「自分は特別である」という感覚。その特別感を延長して描かれたような作品だと思います。

 意図的に周囲と馴染まず、孤立した学校生活を送る女子高校生の主人公は、小学生の頃に所属していた秘密の「クラブ」のメンバーと同窓会を開くことになります。しかしそれと同時に、かつてそのクラブと関わった人々に奇妙な出来事が襲い出し、それが主人公の日常にも侵食し始める……といった感じのあらすじ。

 オカルティズムの要素やグロテスクな場面など、マニアックな部分も多い作品ですが、青春の甘酸っぱさと苦みもしっかりと描かれており、混とんとしたラストシーンからの読後感は不思議とさっぱりした味わいが残る一作です。

 

甘栗と戦車とシロノワール 甘栗シリーズ (角川文庫)

太田忠司『甘栗と戦車とシロノワール』2010年、角川書店 ※画像は文庫版

 青春ショタミステリー、『甘栗と金貨とエルム』の続編。

 主人公は、探偵業を営んでいた父親を突然の事故で亡くしてしまった男子高校生。そんな彼が父親の死後の後片付けをしている最中、ひょんなことで探偵としての「依頼」を受け、高校生の身でありながら事件を捜査していく……という感じのあらすじです。

 魅力を簡潔に言うと、背伸びしている主人公が可愛らしいということです。本文中の独白によると身長約180センチとのことで、物理的にも背が高い設定ですが、大人らしくあろうとする主人公の背伸び具合と、時折見せる子供っぽさのバランスが良い感じです。

 そんな彼が依頼された事件に関わるうちに、事態は予想外の大事へと発展していくという筋書きは、読んでいて本当に巧みだと唸らされます。

 そして事件解決後のエピローグは決して大団円とは言えず、ビターな余韻を残す終わり方もまたグッド。太田忠司氏の作品は2冊の甘栗シリーズしかまだ読んでいないので、私にとって他作品に触れるのが楽しみな小説家の一人になりました。

 

藁綱論―近江におけるジャのセレモニー (近畿民俗叢書 10)

橋本鉄男『藁綱論 近江におけるジャのセレモニー』1994年、初芝文庫

 近江を中心に活動した在野の民俗学者橋本鉄男[1917-96]による著作。

 本書は主に年頭行事で作られる「藁綱」についての論文を一冊にまとめたもので、いわゆる勧請吊という行事についての論究が一つのテーマとなっています。

 勧請吊は非常に目立つ特徴的な文化であるためか事例報告は数多いのですが、体系的な研究はあまり多くありません。そんな中で、著者は勧請吊を一つで独立した儀礼ではなく、新年を寿ぐ年頭行事のプロセスの中に位置づけて捉えるべきだという指摘を行ったことが、本書の注目すべきポイントかと思われます(「年頭行事にセットされたセレモニー」などの独特な言い回しが用いられています)。

 ただ一方で、著者による勧請吊の考察が果たして妥当なものかどうかと言うと……ちょっと難しいというか、かなり厳しいような思いもあります。なかなか特異な言い回しが頻出するので論旨が掴みづらいのですが、簡潔にまとめると著者は「藁綱は蛇であり山の神である」と主張しており、つまり藁綱で作られる勧請縄は山の神を勧請するものである、という話のようです。

 著者は一応、実際の民俗事例から上の結論を導き出しているのですが、素人目に見ても事例の恣意的な選択や解釈が多々混じっているように思われ、素直に首肯しにくいというのが正直な感想です。(あと繰り返しになりますが、言い回しがすごく分かりにくい。)

 確かに勧請縄を「ジャ」と呼ぶなど、蛇との関連を思わせる事例は多いのですが、そのことを本質的な要素として捉えることには問題があります。著者は藁綱が関わる各地の年頭行事に対して、そこに通底する一つの完結した世界観を見出そうとしているように思われますが、そうした本質論・象徴論的な解釈によって見えなくなってしまう部分もあるのではないでしょうか。

 しかしながら、橋本説を安易に切り捨てることもまたもったいない気がしており、勧請吊研究史の中で本書をどう位置付けるか、なかなか難しい問題かもしれません。

 

屍人荘の殺人 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

◎ヨミカワ将(漫画)、今村昌弘(原作)『屍人荘の殺人』全4巻

 この記事では初めて扱う漫画作品でございます。

 原作小説は言わずと知れた衝撃の密室殺人ミステリーで、神木隆之介主演で映画化もされた推理小説。原作は既に読了しており非常に面白かったので、折角なので漫画版も読んでみました(なお映画版は未視聴)。

 大まかなストーリー自体は、基本的には原作に忠実に展開されており、その点は安心して読むことができます。一部、エピソードの順番が組み替えられていたり、人物の掘り下げにオリジナルのエピソードが追加されていますが、いずれも原作で不足気味だった部分を補完するようなアレンジで、違和感なく読めました。絵柄もきれいで、各登場人物の個性が浮き出る描き分けにも好感が持てます。それだけにグロシーンも際立っているので、苦手な人は要注意。

 しかし私が一番注目したのが、ラストシーンの展開です。先ほど、ストーリーは基本的に原作に忠実と書きましたが、はっきり言ってしまうと真犯人やトリックは原作と全く同じです。ただし真犯人判明後のラストシーンの結末が、原作とは若干違う、しかし根本的に大きく異なる描き方がなされているのです。

 個人的にはどちらの決着のつけ方も甲乙つけがたいもので、是非とも原作と併せて読まれることをおすすめしたい良コミック化作品でした。

*1:念のために言うと、本書で「UMA」という単語は出てきません。UMAの初出は1976年なので。