河原に落ちていた日記帳

趣味や日々の暮らしについて、淡々と綴っていくだけのブログです。

【読書備忘録】沖浦和光『幻の漂泊民・サンカ』(2001)

 

幻の漂泊民・サンカ (文春文庫)

幻の漂泊民・サンカ (文春文庫)

 

「サンカ」と呼ばれた人々の調査研究は、ほぼ在野の研究者に一任されているという現状があります。しかしその中で、近年アカデミズムの立場から発信されたほぼ唯一の「サンカ」研究書が、本書『幻の漂泊民・サンカ』です。

 本書はサンカ本としてはかなり有名であるようで、信頼できる情報を見極めるのが難しいサンカ本界隈においては、比較的堅実な研究書として定評を得ています。

 しかし本書は、私が以前に読んだ礫川全次氏の『サンカ学入門』にて、手頃なサンカ入門書として評価されつつも結構手厳しい批判が加えられていたのも事実。実際のところ本書の内容はどういったものなのか、とりあえず手に取って読んでみることにしました。

〈内容紹介〉Amazon商品紹介欄より引用
 近代文明社会に背を向け、〈管理〉〈所有〉〈定住〉とは無縁の「山の民・サンカ」はいかに発生し、日本史の地底に消えていったか。
 積年の虚構を解体し実像に迫る、白熱の民俗誌!
 一所不住、一畝不耕。山野河川で天幕暮し。竹細工や川魚漁を生業とし、'60年代に列島から姿を消した自由の民・サンカ。彼らは、原日本人の末裔なのか。中世から続く漂泊民なのか。
 従来の虚構を解体し、聖と賎、浄と穢から「日本文化」の基層を見据える沖浦民俗学の新たな成果。

 

 では早速、目次から本書の構成を見ていきましょう。

序章  サンカとは何者だったのか
第1章 近世末・明治初期のサンカ資料を探る
第2章 柳田國男のサンカ民俗誌
第3章 サンカの起源論をめぐって
第4章 サンカの原義は「山家」だった
第5章 発生期は近世末の危機の時代か
第6章 三角寛『サンカ社会の研究』を読み解く
第7章 今日まで残ったサンカ民俗をたずねる
あとがき

 本書を読んだ感想を簡単に申しますと、「サンカ」と呼ばれた人々の実像を知る上では、確かに本書はよく纏まった入門書だと言えます。とは言え著者自身のフィールドワークによる調査の成果は、最終章にてざっと触れられている程度であり、「サンカ」の実際の暮らしを追ったルポを読みたい人にとっては物足りない内容ではあります。

 本書の全体的な印象としては、「サンカ」の今日的な実態よりも、「サンカ」の歴史・起源論に重きが置かれているように思います。沖浦氏は「序章」にて、サンカ研究の問題点を以下のように纏めています。

研究の基礎となる資料が少ないので、どうしても限られた情報を根拠にして、いろいろ想像をめぐらせてサンカの歴史とその人間像を構築することになる。その結果、執筆者の主観的なバイアスが強くかかったサンカ研究になってしまう。したがって、サンカの起源や歴史について、これが学問的定説であると学界で評価が定まった研究が打ち立てられなかったのだ。〔p18〕

 明確に述べられた箇所はありませんが、「サンカ」の起源や歴史を資料に基づいて“客観的”に明らかにすることが、本書における沖浦氏の狙いと見て大きく間違ってはいないと思います。

 本書の構成をもう少し詳しく見ていきましょう。序章でまず「サンカ」の概要や研究史が簡単に纏められた後、第一章では近世末期~明治初期における「サンカ」関連の史料が紹介されています。

 しかし沖浦氏が口を酸っぱくして「サンカに関する史料はほとんどない」と繰り返し述べている通り、近世期の史料で明確に「サンカ」という語彙が出てくるものは安政2年(1855)と文久3年(1863)の2点しか紹介されていません。しかし「サンカ」という言葉が少なくとも近代以前に遡るものだということを示したことは、沖浦氏の重要な功績だと言えます。

 明治期以降の文献史料としては、無籍者としての「サンカ」の存在を問題視する政府の公文書がいくつか残されています。沖浦氏は主に中国地方で書かれた公文書を紹介していますが、これは「サンカ」という語彙が元は中国地方の言葉だったことを示唆しているようで興味深いです。

 第2章では、「サンカ」という対象を初めて学術的に取り上げた柳田國男によるサンカ論が検討されています。柳田の民俗学は「常民」*1を対象とした学問だと言われますが、民俗学黎明期における柳田の関心は、むしろ「山人」などと柳田が呼んだ周縁的な“非農耕民”に向けられていたということはよく知られています。「サンカ」も柳田民俗学初期の関心に入っており、明治44年(1911)に彼は『「イタカ」及び「サンカ」』という論考を発表しています。

 第2章はこうした柳田による「サンカ」関連の論考が要領よく纏められてはいるのですが、ところどころで沖浦氏特有の被差別民への思い入れが強く表れた読み解きが展開されており、独特の癖を感じます。

 ともあれ沖浦氏は、柳田によるサンカ論に一定の評価を下しているのですが、続く第3章では柳田の「サンカ=傀儡子起源説」を批判しており、柳田論の限界についても言及されています。

 第3章~第5章にかけては、本書の本願の一つと私が目する、沖浦氏の「サンカ近世末期発生説」が詳らかに展開されています。第3章は上述の柳田説とともに、喜田貞吉のサンカ中世発生説について紹介されていますが、沖浦氏はいずれも文献史料での裏付けができないことを主な理由として否定します。

 沖浦氏は、「サンカ」の近世史料が極端に少ないこと、また由緒書など独自の伝承を全く残していないことを一つの根拠として、「サンカ」の発生は比較的新しい時代ではないか、と推測します。そして「サンカ」発生の具体的な時期としては、大飢饉の起きた天明天保期であると主張します。

 私の結論を言えば、近世の後期に相次いでやってきた社会危機の時代に、農山村民の一部が、定住生活に見切りをつけて漂泊生活に入ったとみるほかはない。〔p194〕

天明から天保に至る約五〇年間に及ぶ断続的な危機の時代に、山野河川で小屋掛けしながら、川魚漁や竹細工でもって、なんとか生き抜こうとした窮民の数が増えていった。彼らが、後にサンカと呼ばれる漂泊民になっていったのである。〔p199〕

 このように近世末から明治維新にかけての大変動期に、わずかな土地・家屋も失って窮民となった人たちが、漂泊生活を余儀なくされ、山野河川で小屋掛けして「しのぎ」の生活を過ごすようになったのではないか。そして、なんとか生き抜いていくために生活の糧としたのが元手が、ほとんどいらず努力次第で技術の習得も可能だった川魚漁と竹細工であった。〔p200〕 

 この「近世末期発生説」が妥当かどうかは私も分かりませんが、後に紹介するような批判が現れていることから見ると、サンカ研究界隈ではある程度衝撃的な見解であったとは言えるでしょう。

 続く第6章では、色々な意味で有名なあの三角寛によるサンカ論文への批判がなされています。沖浦氏は、口調は控え目ながらも三角完全否定派であり、三角論文で紹介された「サンカ分布表」「サンカ文字」「秘密結社シノガラ」などの伝承をことごとく否定し、それらを三角による創作・虚構であると断定します。

 この辺りの論証は概ね妥当なものであると思いますが、しかしやはりこういった類の言説を完全否定するのは難しいことです。三角論文は客観的な史料に基づく検証ができないからこそ信憑性を疑われているわけですが、しかしいくら「常識的」な論理で否定しても、「中には事実も混ざっているかもしれない」という可能性はどうしても残ってしまうわけです。つまり他のトンデモネタと同様に、三角否定派は悪魔の証明を強いられてしまうのです。

 逆に、調査によって三角の提示した「サンカ」伝承の実在を確認したと言う研究者も存在し、三角論文を単純に切って捨てることを躊躇わせる要因ともなっています。中には「サンカ文字」の実在を主張する人すら存在し、三角寛という人物の厄介さを認識させられます。

 最後の第7章では、民俗誌の記述や沖浦氏自身による聞き取り調査を基に、今日に断片的に残った「サンカ民俗」について叙述されています。読者によっては最も興味を惹かれる箇所かと思うのですが、例によって沖浦氏独特の被差別民・漂泊民に対する「暖かな」眼差しが強く表出した、ロマンチシズム溢れる文章で綴られており、個人的には少し辟易してしまいました。*2

 ともあれ沖浦氏は「サンカ」の実像に触れたのち、「サンカ民俗」の特徴を7つ指摘しています。〔p280-281〕

  1. サンカの多くは家族連れであり、大きな集団を組んで移動することはなかった。
  2. 「回遊路」と「得意場」を持ち、毎年決まったルートを回りながら生計を立てていた。
  3. 同じ場所に長期間とどまることは少なく、短くて2・3日、長くても2~3週間すれば次の得意場へ移動していった。
  4. 自然に依拠しながら生活を営んでいたため、自然の生態系を熟知していた。
  5. 夫婦の役割分担を中心に、家族内部で分業システムができていた。単独でやってくるサンカは、主に箕作り・箕直しを行っていた。
  6. 明治中期までには戸籍を持つサンカが多くなっていたと考えられるが、入籍以降も旧来の得意場を回って生計を立てる半漂泊型が多かった。
  7. サンカ同士でヨコの連絡はとっていたが、タテ型の厳しい組織は存在しなかった。

 沖浦氏は本書の最後で、「この本は日本の民衆生活の下支えとなって生きてきた彼ら漂泊民への、私なりの賛歌(オマージュ)である。それはまた、もはやその姿を見ることはできぬ漂泊民への、私なりの鎮魂歌(レクイエム)でもある〔p286〕」と締めくくっています。

 

 本書全体の要約としては、こんなものかと思います。「サンカ」と呼ばれた人々への限りない敬意と憧憬に溢れた文体ではありますが、「サンカ」研究の論点や問題点などを満遍なくカバーしており、本書が広く読まれているのも分かる気がします。

 しかし先述の通り、本書に対して少なからず批判の声が見られるのも確か。礫川氏は本書の主な問題点として、沖浦氏の「サンカ近世末期発生説」と、「サンカ」という単語の扱い方について批判しています。

 まず「サンカ近世末期発生説」への反論として、礫川氏は以下のように主張します。*3

  1. サンカの発生が「幕末」なのか「近世末から明治維新にかけて」なのか明確でなく、説としての明示性に欠ける。
  2. 近世末から明治維新にかけて発生した窮民は、そのまま山野河川に入って漂泊民になったと考えるより、大多数は都市に流入しその下層を形成したと見る方が妥当。
  3. 近世には多様な漂泊民が存在したのにも関わらず、近世末に新たに漂泊民となった人々が一様に竹細工や川魚漁を生業として選び、「努力」によってそれらの技術を習得していったというのは信じがたい。
  4. そうした「新たな漂泊民」の登場をもって、なぜ「サンカの発生」と位置付けられるのか、根拠が明確でない。

 また沖浦説は、礫川全次氏と谷川健一氏による対談でも批判的に言及されています。*4

礫川 今、ここに沖浦和光さんの『幻の漂泊民・サンカ』という本がありますが、この人はサンカ近世起源論で、幕末の流民がサンカになったという説です。今、谷川先生がおっしゃった古い背景は一切無視されています。私はもう少しサンカの歴史というのは古くさかのぼるし、伝承も古いのではないかと思うんです。

谷川 私も「週刊文春」に頼まれて書評をしたことがあるけれど*5、沖浦説に愕然としたんです。

礫川 愕然としますよね。

(中略)

礫川 ええ。被差別性についても切り捨てているし、それから乞食的な位置付けも切り捨てているし、特に「努力によって」川漁と箕作りを学んだというところがちょっと考えられないなと思うんですけれども。

谷川 誰かも書いていたけれど、流民になったら都市に潜入して入るだろうけれど、山のなかには行かないと思うんです。竹細工には行くでしょうけれど。

礫川 ええ、一時的には行くでしょうけれどもね。

谷川 一時は行っても長く山のなかを放浪するなんてことはできなくて、やっぱりそれは百万都市の江戸のほうがはるかに暮らしやすいですから。山に行ったらすぐ行き詰まっちゃいますよ(笑)。

(中略)

谷川 せっかく被差別部落問題でも豊富な資料を持っているのに、何でそんなところへあっけなく落ち着いてしまったのか、不思議な感じがします。

礫川 沖浦さんの本は結構普及している本だけに、もう少しサンカの現実というか、いわば日本史に結びつくようなところを、もう少し絡めてほしかったかなと思います。

 この対談では柳田以来の「サンカ=傀儡子起源説」について注目されており、また「サンカ」の起源を朝鮮半島まで辿る話題で盛り上がっています。少なくともこうして「サンカ」の起源を古く遡らせようとする両者にとって、沖浦氏の説は受け入れがたいものだったのでしょう。

 しかし沖浦氏の主張を整理すると、まず「サンカに由緒書や口碑などといった独自の伝承が全くない」ことを根拠として、「サンカの起源は比較的新しい」と推測しており、それが「近世末期発生説」の一つの前提となっているわけです。

 だとすれば、結局その前提を実証的に崩さない以上、有効な反論とはなり得ないのではないでしょうか。(この点、谷川氏が『週刊文春』で発表したという書評にはどのように書いているのでしょうか)

 私にしても、沖浦説が絶対正しいとは思えません。史料が極端に少ないために、沖浦氏も推測に推測を重ねて答えを導き出しているに過ぎないからです。

 しかしそうとは言え、「サンカ」を中世の傀儡子にまで、ましてや朝鮮半島にまで起源を遡らせることが可能なのかどうか、大いに疑問です。結局沖浦説と同様に史料的な裏付けが不可能である以上、「サンカ」の起源を古く辿ろうとしても所詮「偽史」的な想像力による考察にしかならないのではないか。

 そもそも「サンカ」の起源を特定する必要があるのか。史料的な限界がある以上、分からないものは分からないとする方が、学問的には誠実な態度ではないのか。そんな風にも思うのですが、いかがなものでしょう。

 

 さて沖浦論批判の話に戻しますと、礫川氏は沖浦氏による「サンカ」という単語の扱い方についても批判を行っています。つまり、「サンカ」とはあくまで外部の人間から見た他称であるにも関わらず、沖浦氏は無批判に各地の漂泊民を指す言葉として使用しており、安易に過ぎるのではないか、と礫川氏は指摘します。

 この点は実際に私も読んでみて、妥当な指摘であると思いました。「サンカ」という言葉については、外部からの他称であり元々は中国地方で用いられていたらしい、ということは沖浦氏も認めているのですが、ではどうして各地の漂泊民を指す言葉としてあえて「サンカ」を採用したのでしょうか。

「サンカ」という語彙をあくまで学術用語として使用しているのであれば、それはそれでアリだと思います。しかし本文中では、「サンカ」という言葉を用いて指し示す対象を明確に概念化してはいません。

 そのため沖浦氏が「サンカ」をどう捉えているのかが不明確なまま論が進んでいくのですが、「サンカ」の概念規定的な唯一の説明が、あとがきの中にあります。沖浦氏は日本の漂泊民を6つに分類しているのですが、その中で「サンカ」を独立した一類型として設定しています。

㈥山野河川で瀬降り(野宿)しながら、川魚漁と竹細工など自然採集を主とした独特の生業で生活してきた「サンカ」「サンカモノ」。〔p283〕

 沖浦氏のサンカ観はこの一文に現れていると見ていいと思いますが、漂泊民の類型として他に「山の民」が設定されており、両者が別になっていることが気にかかります。果たして「山の民」と「サンカ」は、明確に分けることができるのかどうか。どうも「サンカ」という存在を、沖浦氏は特別視しているきらいはないでしょうか。

 

 そういったわけで、細かく見ていくと確かに問題点も見受けられる著作ではありますが、しかし本書は「サンカ」研究において、一つ重要な視点を提供していると思います。

 沖浦氏は「サンカ」を、その他の多様な漂泊民・被差別民との関わりの中に位置づけることを試みています。そのため少なくとも、「サンカだけを見ていても全く意味がない」ということは本書を読んで考えたことです。

 私自身は近世における「賤民」についてほとんど知識がないので、近代以前における「サンカ」の位置付けや、沖浦氏の議論の妥当性については、分からないことだらけです。「サンカ」の起源は分かりませんが、日本の「差別史」から見て「サンカ」は一体どういう存在だったのかという点は、考える必要があるのではないでしょうか。

*1:言ってしまえば「普通」の農耕民のこと

*2:この辺りの印象は、読む人の好みによるので悪いとは言いませんが。

*3:礫川全次 2003『サンカ学入門』批評社、p111

*4:谷川健一編 2008『思考の源泉 谷川健一対談集』富士房インターナショナル、p387-389(対談「今なぜ「サンカ」なのか」初出は、2005年『サンカ 幻の漂泊民を探して(KAWADE・道の手帖)』)

*5:筆者未見。