河原に落ちていた日記帳

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【読書備忘録】橘弘文・手塚恵子編『文化を映す鏡を磨く』(2018)

文化を映す鏡を磨く

文化を映す鏡を磨く

 

 文化人類学者・民俗学者として著名な小松和彦氏の、門下生18名が集ってでき上がった論文集です。本書に寄稿された方々は皆、小松氏の下で学問の道を志されたということなので、「小松和彦被害者の会」による書と言っても過言ではないでしょう。

〈内容紹介〉Amazon商品紹介欄より引用
「妖怪研究とは人間研究である」と宣言し、絵巻・伝説・民話の奥深い森に分け入り、異人、妖怪など排除されてきた存在に光を当て、近代化の過程で見失われていった日本人のコスモロジーを発掘した小松和彦―本書は小松理論の思考方法の核心である四つのキーワード「異人論」「妖怪」「図像と象徴」「フィールドワークからの視座」から論じた気鋭の次世代研究者17人による多様で刺激溢れる論集である。

 

 副題にもある通り、本書は小松氏の研究の特徴として「異人論」「妖怪」「図像」「フィールドワーク」の4つを挙げており、これら4つの視座から研究者各々による最新の論考が収められています。

 そんな本書は、以下の目次から構成されています。

まえがき(山泰幸)

Ⅰ.異人論
・「移動する子ども」という記憶と社会(川上郁雄)
・開かれた儀礼と伝説―矢代の手杵祭をめぐって(橘弘文)
・読み替えられる〈国境の島〉―戦後における対馬イメージの変遷をめぐって村上和弘
・韓国で栄えた日本の花札(魯成煥)

Ⅱ.妖怪
・異形と怪類―『和漢三才図絵』における「妖怪的」存在(マティアス・ハイエク
・妖怪としての人形(香川雅信
・「妖怪」を探すということ―検索技術の発展と課題(今井秀和)
・神なき時代の妖怪学―現代怪異譚の「始末」について(飯倉義之)

Ⅲ.図像と象徴
童子と鳥畜ー『融通念仏縁起』「諸神諸天段」「鳥畜善願段」をめぐって(徳永誓子)
・開放される「化物絵」(木場貴俊)
・象徴としての菊御紋(村山弘太郎)
・絵本における表象と影響―現代における妖怪イメージの形成を中心に(松村薫子)

Ⅳ.フィールドワークからの視座
・オーラルナラティブ研究のバージョンアップ記紀歌謡からラップミュージックまで(手塚恵子)
・声の力のつかまえ方大辻司郎の映画説明を例として(真鍋昌賢)
・映像民俗誌における語りとその背景―『明日に向かって曳け―石川県輪島市皆月山王祭の現在』より(川村清志)
・出産の「痛み」を語る声―陣痛から医療処置の痛みへ安井眞奈美

あとがき小松和彦先生の思い出(手塚恵子)

 本書冒頭の「まえがき」では、小松氏の研究の歩みについて簡潔に纏められており、序文ではありながら読む価値は高いです。

 

 まず第Ⅰ部「異人論」では、〈内部〉と〈外部〉の概念が織りなす文化の様相について、4本の論考が収められています。

 私が初めて読んだ小松氏の著書が、「異人殺し」の伝承を構造論で読み解いたことで知られる『異人論』と『悪霊論』でした。これらの著書を読んだ頃は知識が今以上にずっと貧弱だったため、てっきり「異人論」とは怪異伝承を読み解くための方法だと思ってしまったのですが、実際は「我々」に属さない〈外部〉の人(物)を「異人」(Strenger)として捉える方法論なのでした。

 つまりは「異人殺し」伝承のような隠微な伝承に限らず、〈内部〉と〈外部〉の2項対立で捉えられる現象を「異人」の枠組みで捉えることが可能なのです。著書『異人論』では、前近代的なムラという共同体の〈外部〉からやってくる六部などの宗教者を「異人」と捉えて論じられていますが、本書の4論考は全て近現代以降の状況について論じられています。

 また4論考のうち、川上論文・村上論文・魯論文の3つが、近代国民国家の〈内部〉と〈外部〉を巡る人や文化の移動を論じています。

 特に私が興味深く読んだのが、魯成煥氏の論考「韓国で栄えた日本の花札です。韓国では花札が身近に遊ばれているということ自体、私は初めて知ったのですが、魯氏によると韓国では花札の絵柄本来の意味はほぼ完全に無視され、全く新たな意味づけがなされて受容されているとのこと。

 「韓国人は花札に描かれた絵には大きな意味を置かない。それを理解しようと努力を注ぐこともない。場合によっては元々の絵を誤って認識し、順序も変えたりして、この世にない植物まで作る。決して花札によって日本文化に傾くことはない〔p84〕」とはなかなか痛快な言です。

 しかし考えてみれば当たり前のことで、外部から新たな文化を受容する場合、それを自由にローカライズし作り変えることで初めてその地の文化として根付きます。しかし韓国の国粋主義的な識者にとってはそれすら鼻持ちならないらしく、絵柄を「韓国向け」に全く新たに描き直した花札も作られているそうですが、魯氏いわく全て失敗しているとのこと。一度浸透してしまった文化を、啓蒙的に塗り替えようとしてもなかなか上手くいかないようです。

 世の中には、海外でローカライズされた日本料理を日本の料理人が強制的に作り直しを迫る番組が放送されているらしいですが、どう考えても不自然な試みと言わざるを得ないでしょう。

 

 第Ⅱ部は、「妖怪」について。小松氏を語るとき、このキーワードを無視してしまったら某所から抹殺されてしまうことでしょう。

 小松氏が、「妖怪」という存在を学術的な研究対象として引き上げたという功績は、最早改めて言う必要もないでしょう。小松氏が「妖怪学」を提唱・主導したことで、民俗学文化人類学歴史学・文学・地理学等、様々な学問分野から豊穣なる研究成果が生み出されてきました。一方で、「妖怪と言えば民俗学」という、ある種不幸なイメージも生まれてしまいましたが……

 兎にも角にも、第Ⅱ部の4論考を読んだとき印象的だったのが、今井論文と飯倉論文です。

 今井論文は、妖怪情報の収集とネット検索技術の問題について。飯倉論文は、現代怪異譚―特にネット上の怪談「ネットロア」における怪異の「始末」の方法について。両者とも、ネットと「妖怪」との関係について論じられた論考です。

 インターネットが深く浸透した現代社会において、民俗学が「現在学」を掲げる以上、ネット上で生み出される文化についても無視できなくなってきているのでしょう。今のところネットロアを主に取り上げた研究書は伊藤龍平氏の著書『ネットロア』くらいのようですが、海外の民俗学では「デジタルフォークロア」という方法論が広がっているという話も聞くので、今後日本民俗学がネットをどのように取り扱うのか、注視していきたいところです。

 なお飯倉論文では、朝里樹氏の『日本現代怪異事典』が資料として用いられており驚きました。一般書の枠に収まらないかなり専門的な力作なので、誰かがいつか資料として使用するのではないかと思っていたのですが、まさか本当に使用されるとは。朝里氏は在野の怪異ファンとして活動されている方ですが、『日本現代怪異事典』は在野という立場でないと逆に書けない代物でしょう。在野の力、ここにあり。

ネットロア: ウェブ時代の「ハナシ」の伝承

ネットロア: ウェブ時代の「ハナシ」の伝承

 
日本現代怪異事典

日本現代怪異事典

 

 

 第Ⅲ部は「図像と象徴」。小松氏は百鬼夜行絵巻など、文献史料だけでなく図像資料を詳細に読み解き、妖怪文化の様相を明らかにされています。

 

 小松氏の研究は、これら説話文学や口承文芸の構造論的な分析が有名ですが、その一方で人類学者・民俗学者の本領たるフィールドワークも活発に行っています。第Ⅳ部「フィールドワークの視座」では、4人の著者によるフィールドワークの経験から描かれた、濃厚で興味深い論考が収められています。

 これら4論考はいずれも面白いものですが、真鍋昌賢氏の「声の力のつかまえ方」は特に興味を惹かれました。真鍋論文は、無声映画の弁士の話術という、これまで口承文芸の枠組みでは研究されてこなかった対象を取り上げて分析したものです。単に映画の説明をするだけでなく、「奇声」や特異な言い回しを多用することで、映画本来の文脈を越えて新たな笑いの要素を埋め込んだ大辻司郎の「生き方」が描かれており、興味深い論考です。

 もしかしたら、映画のオリジナルに声の力で新たな意味づけを行う「洋画吹き替え」という文化にも、口承文芸の葉脈を広げられるのではないかと妄想したのですが、いかがなものでしょう。

 

 以上述べてきたように、本書は4つの切り口から様々な文化が論じられおり、人文学に興味を持つ方ならいずれかの論考は琴線に触れるのではないでしょうか。人文学全体が縮小傾向にある中、地道なフィールドワークや文献調査の積み重ねにより内容の濃い研究が続けられていることを、一つの希望として捉えたいところです。