河原に落ちていた日記帳

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【雑記】山本素石がツチノコと遭遇したのは何年のことなのか

 あけました。今年もよろしくお願いします。

 昨年最後の投稿では『お化け研究 上方』という同人誌に参加したことを報告しましたが、今回は拙稿において詳しく書けなかった話題を補足的に解説する記事となります。

 そのため、本記事は拙稿「ネス湖から来る波─『逃げろツチノコ』前夜のこと」を読んだ人か、あるいは「ツチノコ」や「山本素石」といったワードについてある程度把握している人向けの記事になるため、あらかじめご留意ください。

 さて今回話題とするのは、「山本素石ツチノコと遭遇したのは何年のことなのか?」という問題についてです。

 素石によるツチノコ捜索記『逃げろツチノコ(1973年、二見書房)によると、彼は1959年の8月下旬にツチノコと遭遇したと書いています。しかし、素石が最初にツチノコとの出会いについて明かした1962年発表の随筆を見ると、なぜか遭遇した時期の記述に2年ものズレがあるのです。

 この問題については拙稿の脚注にてなるべく簡潔にまとめたので、それを以下に引用しておきます。

 素石のツチノコ遭遇談の時期について、実は彼自身による文章の中で矛盾が生じている。『逃げろツチノコ』の記述によると、素石は文脈上1959年8月下旬にツチノコと遭遇したことになっており、同書の初出記事では「昭和三十四年八月二十四日」(山本素石「実録・渓流秘話1 槌ノ子探検記」:p138)と日付まで特定している。
 だが、素石が初めてツチノコを紹介した随筆によると、事件があったのは「昨年の八月下旬のこと」(山本素石「釣の夜ばなし(其五)」:p87)、つまり1961年ということになる。後述の坂井久光や斐太猪之介も、素石の体験談を61年としている(坂井久光「槌の子蛇」、斐太猪之介『山がたり 謎の動物たち』)。どちらの記述がより事実に近いかは断言しかねるが、本稿では61年説を採用している。

(月海月「ネス湖から来る波」『お化け研究 上方』:p61)

 今回は以上の注釈としてまとめたことを、より詳細に解説していきます。

 

 まずは、『逃げろツチノコ』の記述を見ていきましょう。

 同書冒頭の「怪蛇現わる」において、素石はツチノコとの遭遇を以下の語り出しから始めています。

昭和三十四年八月十三日、京都の北山一帯は稀有の集中豪雨に見舞われた。そのときの雨量は、八・一三水害として、気象台の記録に残るほどの局地豪雨であった。それから十日ほどたって、水害で荒れた加茂川上流の様子を見たくなり、一人で雲ヶ畑の奥まで行ったのだが、源流地帯まで荒れ果てて、アブラハヤの姿さえ見られなくなっていた。

山本素石『逃げろツチノコ』:p13)

※傍線部は筆者による。以下の引用文でも同様。

 この後、素石は雲ヶ畑街道から脇に逸れて栗夜叉という小谷に入り、そこで「ビール瓶のような格好をしたヘビ」すなわちツチノコを目撃するという展開になります。

 上の引用文にある「八・一三水害」は、素石の言うように1959年8月13日夕方から翌日にかけて京滋地方を襲い、特に京都市南部に甚大な被害をもたらした水害です(参考リンク)。素石はその当日、加茂川の奥で山津波に遭って九死に一生を得たと言い、そんなこともあって水害の被害を確かめようと雲ヶ畑まで赴いたといいます。

 さて、『逃げろツチノコ』の記述を素直に読めば、八・一三水害の約10日後に素石はツチノコと遭遇したことになるので、同書に従うならその時期はおおよそ1959年8月下旬ということになります。

 

 ところで、上の文章には元となる雑誌記事があります。

山本素石の本4 完本・逃げろツチノコ』の巻末にある初出記事一覧によると、『逃げろツチノコ』の「怪蛇現わる」は、『フィッシング』という釣り専門誌に素石が寄稿した、「実録・渓流秘話1 槌ノ子探検記」(『フィッシング』1971年6月号)という随筆を元にリライトしたものとされています。

 実際にその随筆を見てみると、文章全体は確かに「怪蛇現わる」とほぼ同一なのですが、体験談の時期については以下のように書かれています。

 昭和三十四年八月二十四日。大水害で荒れた後の鴨川の様子を見たくて、雲ヶ畑の奥まで行ったのだが、水源地帯まで荒れつくしていて、アブラハヤの姿さえ見られなかった。

山本素石「実録・渓流秘話1 槌ノ子探検記」『フィッシング』1971年6月号:p138)

 見ての通り、この随筆ではツチノコと遭遇した時期を1959年8月24日と日付まで特定して書かれています。なぜ単行本化した際に日付をぼかしたのかは不明ですが、少なくとも二つの資料の記述に矛盾はありません。このように、『逃げろツチノコ』とその関連記事に依拠するのであれば、素石の体験談の時期は「1959年説」で間違いはないように見えます。

 なお少々余談ですが、UMA関連の本を読んでいると時折、素石がツチノコと遭遇したのは1959年8月13日だと書かれていることがあります(伊藤龍平『ツチノコ民俗学』など)

 しかし先に見た通り、この日付は八・一三水害が発生した日であって、ツチノコとは直接関係ありません。恐らく『逃げろツチノコ』冒頭にある日付を見て、著者が早合点してしまったものでしょう。

 

 さて、話がややこしくなるのはここからです。

 素石がツチノコ捜索に打ち込むようになるのは、その体験談を雑誌に載せたことで彼のもとへツチノコに心奪われた人々が集まり出し、ツチノコを縁に発足したコミュニティが出来上がったことが始まりです。

 そのきっかけとなった記事が、関西のローカル釣り雑誌『釣の友』1962年4月号に掲載された「釣の夜ばなし(其五)」という随筆で、これが現在確認されている限り素石が最初にツチノコに触れた文章です。表題の通りツチノコ話がメインというわけではなく、あくまで素石による釣り関連のエピソードを雑多に紹介する連載記事であり、ツチノコはその中の一つという扱いです。

 それでは、素石による最初のツチノコ記事の中で体験談の時期はどう書かれているのか。エピソードの冒頭部分を抜き出してみましょう。

 昨年の八月下旬のこと、慾ばって鮎と天魚の二本立で行ってみたが、釣り荒れていてその日はさっぱり釣れなかった。ひる頃、砂ヶ瀬というあたりで竿を納めて、次ぎのバスまで時間が余りすぎるので、街道を歩いて下った。

山本素石「釣の夜ばなし(其五)」『釣の友』1962年4月号:p87)

 この後、街道を逸れて栗夜叉という小谷に入り、そこでツチノコに遭遇するという流れは、先に見た『逃げろツチノコ』と同様。しかし傍線部の通り、この体験談の時期が同書と大きく異なるのです。

 つまり1962年時点での「昨年の八月下旬のこと」ですから、素石がツチノコと遭ったのは1961年8月下旬ということになります。『逃げろツチノコ』の記述から2年も繰り上がってしまいました。

 それに加え、翌1963年の随筆でも素石は次のように書いています。

 私もつい先年まで、そんな蛇がこの世に棲んでいようとは夢想もしなかったが、一昨年の八月下旬雲ヶ畑の栗夜叉谷で奇怪な蛇にであってから「つちの子」なるものの実在を否定できなくなった。

山本素石「釣魚まんだら(十一)」『釣の友』1963年11月号:p54)

 1963年時点での「一昨年の八月下旬」なので、やはり1961年にツチノコと遭遇したという主張は揺らいでいません。まだ文献の精査が不十分ですが、60年代前半の時点で素石は自身の体験談を「1961年説」として語っていたのは確かかと思います。

 また、素石以外にツチノコ情報を発信していた人物として坂井久光(岩魚山人)や斐太猪之介らがいますが、彼らが素石の体験談について言及するときも、その時期は1961年とされているのです(坂井久光「槌の子蛇」『あしなか』94号:p1、斐太猪之介『山がたり なぞの動物たち』:p273)

 彼らは素石から聞いた(または読んだ)話に依拠して文章を書いているわけなので、そうなるのが当然と言えば当然ですが、つまり素石の周辺にいた人物も、60年代の時点ではその体験談の時期を1961年だと認識していたのでしょう。

 

 それでは、なぜ素石は70年代になってから自身の体験談を「1959年説」として語るようになったのでしょうか。明確な理由は不明としか言えませんが、ヒントになりそうなのが八・一三水害についての素石による言及です。

 実は、素石が最初にツチノコ目撃談を披露した随筆「釣の夜ばなし(其五)」でも水害について触れられてはいるのですが、ツチノコとは全く無関係に言及されているだけです。

 しかし素石は、71年の随筆「実録・渓流秘話1 槌ノ子探検記」において、八・一三水害の後に被災地を訪れてツチノコと遭遇した……という風に、一連のストーリーとして再構成しています。つまり、八・一三水害とツチノコ目撃談という元々別の独立したエピソードを混ぜ合わせたために、ツチノコ目撃談の時期を水害発生年に遡らせざるを得なくなったのではないでしょうか。

 この改変が、素石の意図的なものかどうかは断定できません。個人的には、素石自身が一つの洗練したストーリーに仕立て上げるため、意図的に体験談に操作を加えた可能性が高いと見ていますが、何しろ十年近く前の出来事なので、当人の中で記憶が混ざってしまった可能性もなくはないと思います。

 どちらにせよ、八・一三水害の方にツチノコ目撃談の時期が引き寄せられてしまったため、「1961年説」から「1959年説」への転換が起きてしまったのは確かでしょう。それが『逃げろツチノコ』へと踏襲されたため、現在ツチノコファンの多くは、素石がツチノコと遭遇した時期を「1959年8月下旬」という風に認識しているのではないでしょうか。

 

 以上長々と書いてきましたが、簡潔にまとめれば次のようになります。

 山本素石は、自身の体験談を当初は1961年8月下旬のこととしていたが、70年代以降に1959年8月下旬の出来事として語るようになった。

『逃げろツチノコ』は、数ある未確認動物捜索記の中でも突出した名著だと個人的に思っていますが、素石自身による過去の文章との食い違いがいくつか見受けられます。

 そのため同書を歴史的な資料として見るのであれば、他の文献との照合作業が必須の取扱注意な資料だと言わざるを得ません。一方で、同書を一つの文学作品として捉えるなら、テキストごとの記述の違いも立派な考究対象になると思います。まだまだ『逃げろツチノコ』には、掘り起こすべき鉱脈が眠っていそうです。

 ちなみに、今書いているネッシーの同人誌が終われば、その次にツチノコ本も書きたいと思っているので、ツチノコファンの方はお楽しみに。それがいつになるのかは分かりませんが、来年は巳年なので2025年中に出せれば縁起は良さそうですね。