河原に落ちていた日記帳

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戦前日本のネッシー報道【新聞記事編】

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『大阪毎日新聞』1933年12月17日付、11頁

 最近、未確認動物(UMA)の歴史を調べていることについては当ブログでも何度か触れていますが、なかなか調べたことをまとめることができずにいる今日この頃です。

 戦後について言えば、70年代のオカルトブームもあり際限なくUMA資料が存在するため、総括するのが大変です。しかし戦前のこととなると、逆に資料を見つけるのがけっこう難しい状態にあります。

 そんな中でも、ネス湖の怪物……後に「ネッシー」と呼ばれる〝怪物〟の情報について、戦前の日本における受容の一端が分かる資料が徐々に集まってきたので、ひとつこの機会にまとめてみたいと思います。

 今回は、戦前日本の新聞におけるネッシー報道をざっと見ていきましょう。

※戦前の資料では「ネッシー」という呼び名は一切出てきませんが、当記事では便宜的に当該の怪物をそのように呼称します。

 

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 上に挙げた表は、現時点で私が確認できている戦前のネッシー新聞記事の一覧です。もちろん自分で古新聞を手繰って探した訳ではなく、ほとんどは湯本豪一編『昭和戦前期怪異妖怪記事資料集成 下巻』(通称「湯本鈍器」)に取り上げられたものをピックアップしたものです*1。恐らく、まだ知られていない未発掘の記事も存在するでしょう。

 

 ちなみに本場スコットランドにてネッシーの目撃談が増え始めるのが、大まかに1933年の後半以降のことです。つまり日本にネッシー情報がもたらされるのはそれ以降ということになりますが、現在確認されている中で一番古いネッシー記事は、1933年12月17日「全英を騒がす白晝綺談 湖水に浮ぶ怪物 まつ黑な背中をぽかり」(毎日新聞かと思われます。(冒頭画像参照)

 ロンドン本社特電【十六日發】超現世的の怪物が一匹、神秘に包まれたスコツトランドの湖水に出没して、奇々怪々な白晝綺談が全英にのたうち廻り、上下をあげて大騒ぎ、遂に數日前英國議會に、政府は即刻トロール船でその湖水の底さらひをし神秘を解いて科學界に寄輿せよとの動議が提出されるに至つた、まさしく未曾有の怪聞

「ロンドン本社特電」と冒頭にあるので、恐らくロンドンに派遣された毎日新聞の特派員による電報を情報源として書かれた記事でしょう。

 この記事では、1933年の5月から「背中の眞黒な顔の馬のような尨大な怪物」の目撃情報が増え出したことに触れ、代表的な目撃例として「居酒屋のお神さんジヤネツト・フレーザーさん」と「モータ・ボートの運轉手ロバート・マツコネル君」の話が紹介されています。

 その怪物の正体としては、魚竜*2と鯨の混血動物説と、水蛇の「變態的成長」説が挙げられています。そして現地民は当初不気味がっていたものの、噂が広まるにつれ見物客らが大勢訪れ現地にお金を落としてくれるようになったため、いつしか怪物に「BOBBY(ボビー)」という愛称がつけられた、という話で記事は締められています。

 見るべきポイントとしては、まだネッシーの正体として代表的なプレシオサウルス等の首長竜説は出ていない、ということ。またその愛称として何故か、「ボビー」という名前が付けられたということでしょうか。

 先に述べた通り、戦前日本の資料には「ネッシー」という呼び名は出てきません。そのため「ロホ・ネスの怪物」などが当時の呼び方としては一般的ですが、特定の愛称で呼ぶときには「ボビー君」の名が用いられました。この愛称がいつ「ネッシー」と入れ替わったのかは、今のところ定かでありません。*3

 そして約一週間後、毎日新聞が続報を出します。それがちょうどクリスマスの1933年12月25日「ロホ・ネスの怪物 生捕つた人に二万ポンドの賞金」で、情報源は同じく「ロンドン本社特電」です。

 記事によると、怪物の話題が日に日に広がる中、「帝室地理學協會および動物學協會會員で有名なアフリカ探險家ウエザレル氏」が、湖岸にボビー君の足跡を発見しセンセーションを起こしたことが報じられており、その発見者の談話が記事中に紹介されています。

 怪物は四足の動物で足の爪先は幅八㌅、身長廿㌳ぐらゐあると想像される、余はロホ・ネスに水陸兩棲の怪物がゐることを余の名前にかけて確信する、怪物は河馬や鰐のように水中から片方の鼻孔を出して呼吸することが出来る

 そしてとあるロンドンのサーカス団が、怪物の生け捕りに2万ポンドの賞金をかけるという、昔の怪獣映画を髣髴とさせるような話題で締めくくられています。

 さて、この怪物の足跡を発見した「アフリカ探險家ウエザレル氏」とは何者なのか……という点ですが、これはマーマデューク・ウェザレルという人物です。そして結論から言うと、このとき「発見」された足跡というのは、カバの足を模した灰皿を使ったトリックだったようです。そのイカサマが暴かれたことが、後にいわゆる「外科医の写真」が撮影されるきっかけとなるのですが、その辺りの詳細は本城達也氏による謎解き記事を参照のこと。

 ただ当時としては、疑念は抱かれつつも重要な証拠として扱われていたようで、毎日新聞ネッシーに注目する一つのきっかけとなったのではないかと思われます。

 そして、毎日新聞はどうもネッシーに対してやけに熱い視線を送っていたらしく、年明けには「春の人氣を一身にあつめて ボビー君・大はしやぎ」(1934年1月21日)という記事が掲載されています。紙面の約3分の1ほどを占めるかなり大きな記事で、毎日新聞ネッシー大好きぶりが際立ちます。

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『大阪毎日新聞』1934年1月21日付、7頁

 冒頭ではいよいよ高まるネッシー人気の様子が描かれ、ネス湖以外の場所でも「オレンとこにも怪物がゐるぞ」と怪物熱が世界的に広まっていた様相が窺えます*4。そしてネッシーの正体を巡り、①前世紀界の爬虫類説②海蛇説③兩棲四足動物説という3つの仮説が紹介されています。

 ①は湖に古来から生息していた古爬虫類の生き残りではないか、という今でも根強い考え方。ただし具体的な正体として挙げられているのはモササウルスで、やはり首長竜説はまだ見えません。②は海から巨大な海蛇が河川を通ってネス湖に行きついたのだという説で、本記事では「いまのところ、最も有力な一つ」と評価されています。③は上記のウェザレルが唱えている、水陸両生の四足動物だという説です。

 また同月中、毎日新聞はわざわざ特派員をネス湖まで送り、1934年1月29日「眞か僞か、世界の謎 ネス湖の怪物を訪ふ」という紀行文的な記事を書かせています*5。この頃には他の新聞でもネッシー記事が載るようになり、朝日新聞・読売新聞でもネッシーを取り上げていますが、これほど熱心に報道しているのは毎日新聞くらいです。

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朝日新聞』1934年1月31日付、13頁

 さて同じ時期には、先に触れたように他の場所で目撃された怪物も話題に上るようになります。上記の表には入れませんでしたが、毎日新聞「今度は大西洋に怪物が出没 海蛇に似た七十尺の長」(1934年2月12日)という記事を出しています。他に湯本鈍器に収録されている記事では、大陸日報「今度は加州沿岸に大海蛇が現る」1934年1月22日といったものもあります。*6

 こうした風潮の中で特徴的な記事が満州日報「イギリスと米國で怪物の競争」(1934年2月25日)で、カリブ海*7で目撃された怪物とネッシーが並列で扱われています。こうした、世界のどこかで目撃された怪物の報道には必ずと言っていいほどネッシーが引き合いに出され、ネッシー熱の余波で世界の怪獣情報に関心が集まっていた様子が窺えます。

 九州日日新聞「ロホ・ネス湖の怪物と海蛇の傳説」(3月19日)では、歴史史料上に見られる海蛇の伝説や、19世紀の大海蛇の目撃談などを紹介してネッシーと関連付けられており、古い資料に現れる怪物の記録を現在の未確認生物と結びつける発想が当時からあったことが分かります。

 もちろん当時としてもネッシーが丸ごと信じられていたわけではなく、たいていの記事で「科學文明の世の中にそんな馬鹿な話があつてたまるものか*8などの文句が枕に使われてはいますが、一方でその正体解明に期待する記事も多く、少なくとも現在よりは(古生物の生き残りとしての)ネッシーの存在にリアリティがあったのでしょう。

 しかしそうした新聞社の関心はあまり長く持続しなかったようで、1934年3月以降は目に見えてネッシー記事は少なくなります。九州日報「ネス湖の海蛇以來……怪物大はやり 愈よ國際怪物戰始る」(1934年5月25日)は世間の怪物ブームを揶揄する記事で、

……『怪物』も非常に効果的な客引き道具だとあって、先般フランスも『ラクダのやうな頭を持つ鯨が発見された』と云う宣傳で此のネス湖のお株を奪はうとかゝつたが、今度は更にトリニダツト島と地中海が此の國際怪物戰に出場の名乗りを上げる始末で、イヤハヤ『怪物』も樂ぢやない

 さて、此の國際怪物戰でどれに軍配が擧がるか、一九三四年のナンセンス見物ではある、もし皆さんの地方に『怪物』が居たら、一つ怪物戰に出場を申し込んでは如何、客引き宣傳になること請合

 と、ネッシーに始まる怪物ブームが「一九三四年のナンセンス見物」と皮肉っぽく評されています。

 湯本鈍器で確認できる最後のネッシー記事、函館新聞ネス湖の怪物ってこんなもの?」(1934年9月30日)ネス湖観光中のアメリカ人女性*9が湖畔にネッシーの模型を作ったという小ネタ記事で、かなり文量の多かった2月中の記事と比べ、ネッシーへの注目度が減退しているように思います。現在の記事収集状況から見る限り、戦前日本における新聞記事としてのネッシー人気は、1933年末から翌年2月までがピークでそれ以降しぼんでゆくと考えていいでしょう。

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函館新聞』1934年7月30日(『昭和戦前期怪異妖怪記事資料集成 下巻』より)

 

 さて、私が現在確認できている戦前のネッシー新聞記事をざっと見てきましたが、個人的に気になっていることが一つ。それは、あの世界一有名なネッシー写真として知られる「外科医の写真」が、戦前の新聞で話題になった形跡が見られないということです。

「外科医の写真」が初めて世に出るのは、1934年4月21日のデイリー・メール紙上のこと。日本ではその前年の時点でかなり詳しいネッシー記事が書かれているのですから、当然この写真のことも日本の新聞で話題になりそうなものですが、不思議なことに各新聞社のデータベースや鈍器をチェックしてみても、戦前に「外科医の写真」を紹介している記事が見当たらないのです。

 鈍器に関して言えば、編集した湯本豪一氏が取りこぼしてしまったという可能性を全否定はできません。ただ言うてもけっこう目立つ印象的な写真ですから、それをピンポイントで見逃してしまうというのは考えにくいように思います。

 私個人は、何らかの理由により当時の日本には「外科医の写真」の情報がリアルタイムで入ってこなかったのではないか、という可能性を考えていたりします。詳細は次回に書きますが、新聞だけでなく当時の雑誌記事にまで範囲を広げても、「外科医の写真」がさっぱり紹介されていないからです。

 一応、1935年のとある雑誌記事で掲載されているのを確認していますが、それが初の紹介例とも考えにくく、「外科医の写真」の日本における受容史は一つの課題となりそうです。(詳しい方、情報お待ちしております!)

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↑「外科医の写真」

 

 他にも色々と論じられそうな点は多いですが、とりあえず今回はここまで。当記事で紹介した資料のほとんどは、お手元に鈍器があれば誰でも読めるものなので、気になった人は鈍器をチェック!

 今回は新聞記事の紹介でしたが、次回(↓)は戦前の雑誌ではネッシーをどう報じていたのか、という点にフォーカスを当てていきます。

kawaraniotiteitanikki.hatenablog.com

*1:1934年1月21日の読売新聞記事のみは湯本鈍器中にはなく、読売新聞社の提供しているデータベース「ヨミダス」で確認することができます。

*2:原文では「イクレオソーラス」とある。イクチオサウルスのことか?

*3:ニコラス・ウイッチェル『ネッシーの謎 ネス湖からの最新調査報告』(1976年、頸文社)に「ボビー」という愛称について触れている部分があり、現地で当時そう呼ばれていたのは確かと思われます。

*4:それに対し記事中では「いづれも小規模、誠にチャチな怪物で、本家のボビー君の足もとへもよれない」となかなか辛辣。

*5:特派員の名は石川欣一〔1895-1959〕。当時、毎日新聞のロンドン支局長を務めていたということで、先のネッシー記事も石川氏によるものかもしれません。なお後に石川氏は、「ロホ・ネスにモンスターを見ざるの記」という随筆を書いています(1936年『随筆 ひとむかし』所収)。

*6:ちなみに湯本鈍器には九州新聞「今度は大西洋に怪物が出没」1934年2月14日という記事も載っていますが、これは先の2月12日毎日新聞の記事を転載したものです。

*7:原文「カリビア海」

*8:満州日報「イギリスと米國で怪物の競争」(1934年2月25日)

*9:原文「ヤンキー娘」