河原に落ちていた日記帳

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【読書備忘録】篠原徹『民俗学断章』(2018)

民俗学断章

民俗学断章

 

 民俗学者であり、現在は琵琶湖博物館の館長を務める篠原徹氏による最新の著書です。

 表紙の写真は、日本のどこぞにある山村の風景……かと思いきや、表紙そでには「海南島・リー族の初保村全景」というキャプションが。

森林がよく残っているように見えるけれども実は樹木はすべてパラゴムであり、畑はキャッサバが作られている。典型的なプランテーションである」とのことであり、現代人が持つ「原日本」というイメージとはいかにあやふやなものかと思い知りました。

〈内容紹介〉社会評論社公式HPより引用
 引揚者二世のルーツに始まり、民俗学者として五十年余りの間をアジア、アフリカ、日本国内の小さな山村に滞在して集めた人と動植物の民俗をいま改めて考える。半生をかけた学術的蓄積を自ら再構成して見出すのは、現在の日本民俗学の抱える学問的問題点である。

 

 民俗学の世間的なイメージとは、どういったものでしょうか。

 まず「ミンゾクガク」と言葉で聞いて、ピンとくる人はどれだけいるのでしょう。恐らく大抵は、「民族学」と間違われてしまいます。「ゾクは"俗"の方だよ」と教えたとしても、そもそも「民俗学」という学問自体を知らない人の方が多いと思います。それだけ世間においては、マイナーな位置づけの学問です。

 民俗学を知っている、という奇矯な方であっても、その学問のイメージとしては、妖怪・伝説・神話・祭り・民間信仰……といった用語が先行するのではないでしょうか。

 しかし本書では、そういった話題はほとんど出てきません。篠原氏の専門とするところは、人々が自然に対してどう向き合い巧みに利用していくかという「民俗自然誌」を中心に研究されているからです。敢えてジャンル分けすれば、「生業研究」ということになるでしょうか。

 民俗学の中でも、生業研究は世間一般の関心を惹きにくい領域かもしれません。しかし人々の生き様を丁寧に掘り起こすことが民俗学の本願であるとすれば、篠原氏の研究は学問の本流に忠実に沿った仕事だと言えます。

 しかしここで気になるのが、「はじめに」に書いてある以下の篠原氏の言葉です。

民俗学という学問分野に正統と異端あるいは本流と傍流というものがあるとは思えないが、しかしあるという人もいる。その意味で言えば私などは明らかに異端で傍流ということになる。私にとってはそんなことはどうでもいいことなのだが、傍流で異端と言っておいた方がいかにも民俗学らしくておもしろいと思う。本書は異端の民俗学者の現在の民俗学批判として読んでいただきたいと思っている。〔p7-8〕

 私は篠原氏の著作を、本書以外では『自然を生きる技術―暮らしの民俗自然誌』*1くらいしか読んではいないのですが、それでも「私などは明らかに異端で傍流ということになる」と自分で書いている辺りに引っ掛かりました。私などはどうしても、篠原氏が「異端」で「傍流」だとは思えないのです。

 しかし本書で展開される民俗学批判を見ていくと、篠原氏の言う「正統」の民俗学がどういったものなのかが、少しずつ見えてくる気がします。

この伝承というのは近代の教育制度以外の場で伝達されてきた文化を指すので、通常日本人ならご飯を食べるとき箸を使うとか、不同意を愛想笑いですますとかの仕草など数え上げたらきりがないほど生活の中にある、何気なく行っている行動や考え方である。この中には何故か分からないけれども奇妙なものから古そうな、そして形式性を備えた、民俗学者にとっては美しくみえる衣装の端切れがある。今までの民俗学というのがこうしたものだけを扱ってきた故に、奇妙な人間たちと思われるのであろう。そうした伝承を私は伝承の欠片と言っている。〔p19〕

かろうじて伝承されているような伝承の欠片だけを扱うことが民俗学とすればそうした民俗学とは決別すべきで、むしろそうした民俗学は放棄すべきだろう。対象領域のことで民俗学では問題となるのが「あつかう時代」のことである。それが章題にもある「民俗学的現在」ということであり、ここで言う現在というのはご飯を箸で食べる習慣をもつ人が、コンピュータを扱って世界の動画サイトを楽しんでいるまさに現在を指している。(中略)私たちは民俗学によって過去を知りたいのではない。現在の我々の有り様を知りたいのである。民俗学が教えてくれる過去は現在を知るための参照枠なのであって、それは現在にまで辿ってくることのできる過去であり、過去そのものではない。〔p21-22〕

古い過去は新しい過去に入れ子のようになっている場合もあるし、痕跡すらなく消滅したものもある。また新しく過去のある時代に生じたものもある。民俗学にとって、この民俗学的現在と前代だけが時間的区分であり、この両者のダイナミズムの中で現在の文化を考えることが民俗学なのではないか。これが私の考える民俗学である。だから歴史民俗学のエトノス論や日本文化論の古層・深層・基層などという思考はいったん棚上げにしようということである。〔p24〕

 つまり、現在観察できる文化から日本文化の深層・古層といったものを幻視するような民俗学が、篠原氏の言う「正統」の民俗学なのではないでしょうか。

 私もかつて大学で民俗学の末席を汚していた一人ですが、篠原氏の言葉には強い説得力を感じます。民俗学について知れば知るほど、民俗学で日本文化の「古層」などという実態の不明瞭なものを捉えることはまず不可能だということを自然と感じていたからです。

 現在においては、篠原氏による批判と同様の問題意識を共有する研究者は多くなっているように思います。ただそれでも本書のような「異端の民俗学者の現在の民俗学批判」が新たに刊行されているあたりに、民俗学が「古層」「基層」といった本質論の呪縛から十分に抜け出せてはいない現状が反映されているようにも思えます。

 

 その後本書では、篠原氏による調査研究を具体事例として挙げながら、旧来の民俗学への批判や、民俗学が持つ可能性について論じられています。

文章は最近書いたものもあれば以前書いてどこにも発表せずに眠っていたものに眠っていたものに手を加えたものもある〔p7〕」とのことで、本書の論点は多岐に渡っており、私のような浅学者が要約するには手に余ることです。恐らくそのうち本職の民俗学者が本書の書評を書くことと思いますので、私は無責任に書きたいことを書き散らす所存です。

 本書の話題はどれも民俗学の抱える問題を考える上で示唆に富むものばかりですが、中でも第4章「民俗自然誌という方法」は力の入った論述でした。篠原氏が長年の研究テーマとしている「人と自然の関係についての民俗学的研究」について書かれた章だということもあり、本書のうち一番多くの頁が割かれています。

 篠原氏は人々が営んできた自然利用の民俗を、「自然を生かす」技術、「自然をたわめる」技術、「自然を変える」技術、「自然を創る」技術、という4類型に分類します。そしてそれぞれの具体事例として、ニホンミツバチの養蜂技術、鵜飼漁法、在来農業、純林を造る技術、といった自然利用の民俗が紹介されています。

 いずれも人々の巧みな自然利用の技術が描かれており、自然観に乏しい私が読んでいると驚かされることばかりです。いつも妖怪やら偽史やらといった得体の知れないものについて書かれた本ばかり読んでいますが、たまにこうした民俗学の本流的な著作を読むと、新鮮な驚きに溢れており実によいものです。

 篠原氏によれば、民俗学は「「他者理解」を通じて「自己とは何か」を知る一つの方法である〔p39〕」と言います。私を含めた現代人にとって、自然利用の方法とは日本国内の事例であっても最早完全に「異文化」です。自分と異なる世界に住む人々の「生きる方法」を、丹念なフィールドワークによって掘り起こすことが、民俗学の本願と言ってもいいのではないでしょうか。

 

 篠原氏は本書の最後に、以下の言葉を投げかけて締め括っています。

 身過ぎ世過ぎとして民俗学を標榜して生きてきたが、我が親友であった人類学者・掛谷誠は「人類学者は詩を書かない詩人なんや」と言っていた。その顰みに倣って「民俗学者は詩を書かない詩人なんや」と居直ることにしたい。詩は人々の心に響くが、一銭のお金にもならず経世済民など何の関係もない。ただ、一編の詩がいつかどこかで世の中を変えていくことがあるかもしれないことを信じるしかないであろう。〔p239〕

 諦念の言葉のようにも見えますが、この文を読んで民俗学の持つ意外なしぶとさを思うのは私だけでしょうか。

 宗教学者に「落日の民俗学*2と言われてから20年以上が経ち、今でも相変わらず「民俗学は終わりだ終わりだ」と内外から言われ続けているわけですが、案外しぶとく生き永らえています。

 恐らく今後も、民俗学は世間的に影響を与えるような学問にはなり得ないのでしょう。「実証性に乏しい」という毀誉褒貶も受け続けることかもしれません。しかし、他の学問が取りこぼしてしまうような、人々の強かな「生きる方法」を集めることができるのが、民俗学ならではの強みなのだと思って止みません。

*1:篠原徹 2005『自然を生きる技術―暮らしの民俗自然誌』吉川弘文館

*2:山折哲雄 1995「落日の中の日本民俗学」『フォークロア』7号