河原に落ちていた日記帳

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【読書備忘録】久米晶文『「異端」の伝道者 酒井勝軍』(2012)

 更新をサボっている間に世間は何やら大変なことになってしまいましたが、それはそれとして今回も相変わらずオカルト関連の本を紹介する当ブログです。

 ということで今回紹介するのはこちら。

「異端」の伝道者酒井勝軍

「異端」の伝道者酒井勝軍

 

 日本人のルーツはユダヤ人である。

 よって、日本語のルーツもヘブライ語である。「君が代」もヘブライ語で解釈することができる。日本国の象徴たる天皇も、ユダヤ人を祖先としている…

 こうした「日ユ同祖論」に触れて面喰ったことのある人は、案外多いんじゃないかと思います。オカルトの一ジャンルとして根強い人気を集めているこの言説ですが、歴史を遡ってみると意外と古く、現在確認されている限りでは江戸期にまで遡れるようです(藤野七穂「日猶同祖論の誕生と系譜」ASIOS編『昭和・平成オカルト研究読本』)。

 そして近代日本の、代表的な日ユ同祖論者として知られているのが、酒井勝軍(さかい かつとき)という人物です。

 酒井は明治7年(1874)の山形県に生まれ、キリスト教徒として洗礼を受けたのちに音楽研究のためアメリカへ留学、その経験を活かして帰国後は讃美歌を中心に据えた布教活動を行っていました。

 そうした堅実な牧師として日々を送っていた酒井が、なぜ日ユ同祖論や、日本にピラミッドを見出したりするような「異端」の伝道者として変貌するに至ったか。

 本書は酒井勝軍という人物の思想と生涯を、「トンデモ」という衣を取り去って同時代的な動向から検証した評伝となります。

〈内容紹介〉Amazon商品紹介欄より引用
 太古日本には超文明があった? モーセの裏十戒石板が日本にあった? キリストは日本に渡って青森で死んだ? 日本とユダヤは同祖先? ハルマゲドンで天皇が世界を統一する?…など、今日にも伝わる奇矯なオカルト説を唱えた男・酒井勝軍の生涯と、知られざる近代異端宗教史。

 

【目次】

まえがき
序章 その墓所は桜吹雪の中にあった

第一部  教養の形成
 第一章 キリスト者酒井勝軍の誕生
 第二章 仙台神学校の春秋
 第三章 冒険的アメリカ留学
 第四章 帰朝者酒井勝軍
 第五章 戦場で見いだされたもの

第二部  神秘の醸成
 第一章 すべては神秘体験からはじまった
 第二章 ユダヤ開眼――ユ日同祖論の展開
 第三章 竹内文献と日ユ同祖論の世界
 第四章 太古日本のピラミッド
 第五章 神秘主義者の終焉

あとがき

 本書は二部構成になっており、第一部で誕生から洗礼、留学を経て伝道者として活動する覚醒前の酒井の姿を追い、第二部以降で神秘体験を経て神秘主義者として開眼してからの酒井が描かれています。総ページ数600頁超の、なかなかの大著です。

 従来、オカルトとの絡みで酒井を紹介する書籍は複数存在しました(例えば原田実『日本トンデモ人物列伝』など)。しかし本書はそうした先入観を一切取り払い、近代の知識人また思想家・宗教家としての酒井を活写する試みがなされています。

 本書「まえがき」に依れば、著者の狙いは以下のことにあります。

本書では、酒井を「異端」の思想家としてではなく、「代替」を模索した思想家として捉えようとしている。「代替」は「代替医療」「代替エネルギー」などと使われるのとおなじように、「今そこにあるものにかわりうるなにか」と考えていただければと思う。〔p6〕

「代替」を模索した思想家とは、どういうことか。一体何に対しての「代替」なのか。

 この疑問は本書を読み進めるうちに了解されますが、結論を先に行ってしまえば、著者は酒井を「近代文明に対する代替文明の伝道者」として評価します。何故にそのように断言するのか、著者は酒井の生涯を現在手に入れられる史資料を駆使して丹念に追いながら説明していきます。

 まず本書の第一部では、神秘主義者として開眼する前の酒井の足取りを追い、その思想の基礎を形作った知的教養の形成過程が探られます。

 開眼前の酒井の人となりは、頑固な一面を持ちながらも実直に布教に勤しむ、実に普通の人という印象です。自分の身に常に付きまとう貧困の苦しみをしのぎつつ、アメリカ留学から帰国した酒井は、その経験を活かして讃美歌指導運動を全国的に展開し、当時それなりに世間で認められていたようです。オカルト的な思想とは一見無縁な時期ですが、著者はこの時点で後の神秘思想に繋がる片鱗を、酒井の音楽理論の中に見出しています。

 しかしこの時点では「気鋭の牧師」程度の存在だった酒井を、一気に異端の伝道者へと変貌させることになったのは、ある日彼の身に降りかかった神秘体験が全ての始まりでした。

  酒井は家族とともに郵便局へ向かう道すがら、東の空に偉大な「霊光」を見出します。まず最初に、満月を中心とした大月暈の円が現れた後、中央の月から上下左右に光芒が伸びて十字形を成すという、島津家の家紋のような異象が酒井の前に出現したのです。

 酒井はこの光景を見たことで、思想の段階を神秘主義へと押し上げたのです。すなわち、日本を象徴する円とキリスト教を象徴する十字が融合する異象を見上げ、日本とキリスト教は一体であるという信念を得たのです。これは一般的な理屈で理解できるものではなく、彼自身の感覚としてそうした真理を見出したとしか言いようがありません。

 なぜにそうした信念を獲得するに至ったかと言えば、先に述べた留学体験と、帰朝後の日露戦争従軍の経験が大きく関わっているのだと著者は言います。

 日本の近代化とは、手短にまとめれば前近代の日本的なるものを否定し、西洋からの知識や技術を取り入れることで進められました。ところが酒井は、アメリカ留学と日露戦争従軍という2回の外世界に触れる体験を経て、近代文明の持つ限界を悟るに至ったと著者は言います。そこで酒井は、西洋的な近代主義を乗り越える、代替的な思想を追い求めることになったのだ、と。

 酒井は日露戦争に従軍することによって世界観の大転換を迫られた。
 それは、ひとことでいえば西洋的価値観から日本的価値観への転換であり、さらに少々手あかのついた定義を援用しつつ言表するならば、反戦平和主義、親米主義、民主共和主義から戦争肯定礼賛主義、日本主義、神政主義を標榜するという思想的なスタンスの転換であった。
 近代主義者から反近代主義者への「転向」といってもいいだろう。

(中略)

 酒井の反近代主義とは、たんなるアナクロニズムではなく、代替という思考方法(オールタナティブな思考)を梃として文明の再構築を目指す一種の変革思想なのである。ことは文明観の根幹にかかわっている。ゆきづまっている既存の文明に替わる新文明が求められねばならないのである。〔p234〕

 酒井は近代文明に替わる「新文明」として、単なる国粋主義的な日本回帰論へとは行かず、キリスト教と日本を融合させたものを想定しました。そこで、「キリスト教の理想的な体現者」としての古代イスラエル帝国から、文明が移植される形で日本が誕生したのだという奇想を得たのです。

 つまり、日本はキリスト教の正統な継承国であると主張せんがために、日ユ同祖論が提唱されたわけです。○と十字が融合する光景は、日本的なるものキリスト教的なるものが一体化する、正にその世界観を象徴するものとして彼の前に浮かび上がったのです。

 この出来事は酒井が神秘主義者として歩み出す最初の一歩となりましたが、この時の酒井による日ユ同祖論は、「ユダヤから日本が生まれた」とする言わば〝ユ日同祖論〟とでも表現すべき方向性でした。

 しかし後に『竹内文献』と出会うに至ってそのベクトルが逆向きとなり、「キリスト教的なるものは日本から生まれた」とする〝日ユ同祖論〟へと考えが変化し、また天皇の姿を象徴したものとして日本独自のピラミッドを「発見」するなど、その思想は時代が世界大戦の混沌へと向かう中で独自の発展を遂げていきます。

 その詳細な顛末は、実際に本書を読んでもらう方が抜群に面白いのでここでくだくだしく説明はしませんが、「トンデモ」という単純な評価を拭い去った酒井の宗教家としての姿が実に活き活きと描かれており、近代宗教思想史の一断面として興味深い記述がなされています。600頁以上の大著ではありますが、著者の乗りに乗った個性的かつ衒学的な筆致のおかげで読者を飽かせません。

 ただし、それだけに本書の内容を丸ごとそのまま信じるのも問題があると考えます。著者は酒井の思想を「近代文明を代替する新文明を模索した思想家」として捉え、一見理解不能な主張の数々に一貫性を持たせて叙述していますが、果たしてこの見立てが妥当なものなのかどうか、判断は難しいものと思えます。

 と言うのも、「ゆきづまっている既存の文明に替わる新文明」「オールタナティブな思考」などというような物言いは、70~80年代頃に流行ったいわゆる「ニューエイジ」や「精神世界」といった思想運動と明らかに軌を一にしているからです。つまり酒井がそうした思想を持つ宗教家だったというより、著者の久米晶文氏自身がニューエイジ的な思想を強く持っており、それに合わせて酒井の主張を読み解いているのではないか、という印象を拭いきれないのです。

 そう考えると、この評伝自体が酒井に対する「異端」的な読み解きなのではないか、という捉え方もできるでしょう。

 酒井勝軍という人物の思想はもちろん、近代の異端的な宗教思想や、偽史言説といったものに興味を持つ方には、本書は必読の書と言えると思います。ただしそのためには、著者自身の思いがどこかに強く影響していないかという嫌らしい考えを頭の片隅に置いた、用心深い読み解きが必要となるでしょう。

 本書を酒井勝軍の思想家・宗教家としての再評価の書と捉えるか、あるいは酒井を通した近代主義批判の書と捉えるか。これは読む人によって、評価が変わってくることと思います。

 結局酒井の思想は正統な継承者もなく、現在のオカルト言説の中に矮小化された形で細々と生き残るのみです。○に十字が融合する世界を待ち望んだ酒井ですが、その世界が本当に来るべきものなのかどうか。これは現在を生きる人々に委ねるしかありません。