河原に落ちていた日記帳

趣味や日々の暮らしについて、淡々と綴っていくだけのブログです。

【読書備忘録】稲生平太郎『何かが空を飛んでいる』(1992)

定本 何かが空を飛んでいる

定本 何かが空を飛んでいる

 

 2020年6月17日、宮城県上空に謎の白い物体が飛行しているのが話題となり、既にWikipediaの記事にもなっていて驚きました。素性の分からない物体が、世間の目をあざ笑うかのように飛んでいる……まさに未確認飛行物体、いわゆるUFOというやつです。

 とは言え、形状からすると明らかに何がしかの観測用気球と思われるため、流石に「宇宙人(エイリアン・クラフト)だ!」という声は少なかったのがちょっぴり寂しい思いもします。

 どこの誰が何の目的で飛ばしたものなのか、具体的な素性が未確認という意味では未だUFOではあるのかもしれませんが、もはやオカルト案件と言うより国防上の問題となっているのでこれ以上のオカルト的掘り下げは無理がありそうです。今のところ続報はありませんが、海外の観測用気球が風に流されて辿り着いた可能性が指摘されており、恐らく事の真相としてはそんなもんなのでしょう。

 現在、UFO関連の話題は散発的に出てきては一瞬で消費され消えていくような印象です。しかしかつてはかなりの人々がUFOに夢中になり、空を見上げ遥かな宇宙に想いを馳せた時代もあったはず。日本語としては変ですが、「UFOは実在するのか」どうか、今でも気になっている人は少なくありません。

 個々のUFO事例の真偽は誰しも気になるところ。しかしここで視点を変えて、人間にとって「UFOを見ることの意味」とは一体何なのか、考えてみるのはどうでしょう。

 人々は、いったいなぜUFOを見て、どうして宇宙人に遭遇するのか?

 UFO現象自体を人間の営みの一つと捉え、文化的な側面から眺めることで、UFOのまた違った一面が見えてくるのではないか。今回紹介する本は、そうした視点からUFO現象の一つひとつに考察を加えた、オカルト研究史上の名著です。

〈内容紹介〉Amazon商品紹介欄より引用
 UFO現象や神秘体験を明快に論じた奇跡的名著がついに復刊! あわせて西洋近代オカルティズム略史、ジョン・ディーの精霊召喚、ナチズムとオカルト、柳田國男南方熊楠の山人論争など、他界に魅せられし人々の、影の水脈をたどるオカルティズム・民俗学エッセイ・評論を一挙集成。

 

 原著自体は1992年に出版されたものですが、私が読んだのは2013年に復刊されたものです。復刊版には、著者によるその他のオカルト関連論考が併せて収録されておりオカルトファンには必見ですが、本稿では元の『何かが空を飛んでいる』部分を中心に紹介します。

 なお著者である稲生平太郎の正体は、英文学者の横山茂雄氏によるペンネームです。

第一部 何かが空を飛んでいる

  1. 私は前科者である
  2. 踊る一寸法師
  3. 小人たちがこわいので
  4. 虐げられた人々
  5. セックスと針とフライング・ソーサー
  6. 私を涅槃に連れてって
  7. 空飛ぶレイシズム
  8. 妄執の格納庫18
  9. 陰謀の泉
  10. キャデラックの中の三人男
  11. 黒い哄笑
  12. 空を飛んでいるのは何か?
  13. 光に目が眩んで

第二部 影の水脈

  • 影の水脈――西洋近代オカルティズム略史
  • シオンの顕現――アーサー・マッケンと〈オカルト〉
  • 天の影――チャールズ・ウィリアムズの場合
  • 想像力という「呪い」――シャーロット・ブロンテ「ヴィレット」
  • 異界の言葉――テオドール・フルールノワ「インドから火星へ」 
  • 地底への旅――カフトン=ミンケル「地下世界」
  • ログフォゴあるいは『岩の書』――リチャード・シェイヴァーについてのノート
  • 水晶の中の幻影――ジョン・ディーの精霊召喚作業
  • 物語としての同祖論の《起源》
  • 妄想の時空――木村鷹太郎とウィリアム・カミング・ボーモント
  • 獣人と神人の混淆――アドルフ・ランツとフェルキッシュ・オカルティズム
  • ヒトラー、ナチズム、オカルティズム

第三部 他界に魅せられし人々

 まずこの本は、題名の通り空飛ぶ円盤、つまりUFOについて書かれた本です。しかし世のUFO本としては、かなーり変わり種のものであることは間違いありません。

 何しろ、本書はこんな出だしから始まるのです。

 たとえば、本書は、円盤に乗ってるのは灰色の宇宙人で、アルファ・ケンタウリからやってきた可能性が強いといってる本ではない。
 宇宙人は僕たちを誘拐しているばかりか、人間にまぎれこんで暮らしいているという本でもない。
 円盤は幾度か墜落していて、各国政府は宇宙人の死体を隠蔽しているという本ではさらさらない。
 むしろ、そもそも円盤のどこが乗り物なのか、責任者出てこいっ、という本である。(「まえがき」p11)

 この人を喰ったような序文から、これは単純なUFO本ではないということを瞬時に読み取る必要があります。ちなみに本書は(第一部に限り)こうした軽妙な文体で書かれているため、そこら辺は好みが分かれるかもしれません。

 空飛ぶ円盤の本を真面目腐って書けるもんかい、という著者の意図があるのかもしれませんがそれはさておき。文章は軽いですが、内容は非常にディープなところをほじくり返しています。

 著者曰く、「空飛ぶ円盤は恥ずかしい。空飛ぶ円盤の本を買うのはとっても恥ずかしい〔p13〕」。

 確かにUFOの話題というのは、数あるオカルトネタの中でもキャッチーかつファンタジーな色合いが強いかもしれません。実際、SFもので完全に定着したトピックでありますゆえ、UFOを真面目に語るのは馬鹿馬鹿しいというような空気があるのかも。

 しかしそのキャッチーさの裏に、底深いオカルトの荒野が広がっているのがUFOという世界なのです。

 例えばUFO現象のうち、宇宙人との遭遇事例をとってみましょう。

 多くの事例で共通するのは、不思議な光が地上に降りてきて、その光の中に人間型の不思議な生物を見た、というもの。

 しかしこの要素だけを取り出してみると、実は古くから伝わる妖精の伝承とかなりの共通点があることを著者は指摘します。

 突っ込んで言えば、宇宙人との遭遇事例とは、古来からの妖精伝承が現代向けに変奏したものではないのか、と言うのです。

 つまりUFO目撃談や宇宙人遭遇体験は、人類がいにしえより体験してきた神秘体験と本質的には同じなのではないか、という考えにもいたります。こう考えると、UFOというファンタジーな現象にも奥深さを感じるようになりませんか。

 このように、民俗学的な観点から宇宙人案件を最初に考察した人物にジャック・ヴァレというUFO研究家がいるのですが*1、本書はそれら文化・思想的なUFO研究を総括したような趣があります。

 しかしUFO現象は、そうした素朴な民間伝承的な世界観からのみ成り立っている訳ではありません。むしろUFOという界隈は、社会の裏面をごった煮したような感があります。

 宇宙人を神のように崇めるUFOカルト、宇宙人の姿に反映された人種差別、そして果てしのない陰謀論の広がり……そうした人間のどろどろとした一面が渾然一体となって、UFO現象は成り立っています。

 本書はそうした要素にも細やかに目配りして、空飛ぶ円盤という界隈の奥深さ、悪く言えばややこしさ、わけのわからなさを浮かび上がらせていきます。

 最終的に、何が空を飛んでいるのか……という結論は示されません。UFOというのはわけの分からないものなのですから、一つの結論なんて出ないのが結論、という話でもあります。

 しかしUFOという存在は何であれ、人間の持つ現実感を揺らがせ、崩壊させるものとして顕現し続けています。人は古来より空に何かが飛んでいるのを見つめ、ある時はそれを宗教的な奇跡として、そしてある時は宇宙人の乗り物として認識してきました。

 認識の枠組みが違うとは言え、空飛ぶ何かはずっと昔から人間の住む世界にある種の〝裂け目〟を入れているわけです。

 最終的には円盤の正体は何か、UFOとは何かという理屈ではなく、「人間は人間だからこそ空に何かを見るのだ」という、UFOを通じた人間論へと話は収束していきます。

 だって、そうでしょう、空に何かを見なければ気がすまないなんて、おかしいよ。普通の市民もへったくれもない。彼らは人間という動物だから「見て」しまったんだ。大昔から、ひょっとして洞穴に住んでいた時から、人間は見てきた。この奇妙な力は人間という種の進化の原動力になってきたのかもしれない。見なければ、猿のままだったのかもしれない。
 世界はおそらく僕たちの思っているようなものじゃない。そして、世界に裂け目があるかぎり、僕たちは見るのをやめない――何かが空を飛んでいるのを。〔p122-123〕

 恐らくこれからもずっと、空には何かが飛び続けることでしょう。

 それが鳥なのか飛行機なのか金星なのか、はたまたプラズマなのか観測用気球なのかあるいは宇宙人の乗り物なのか、そんなことは知る由もありませんが、どうやら人間はどれだけ科学が発達しようと、世界に裂け目を見なければ済まない生き物なのだと思います。

*1:『マゴニアへのパスポート』という著作が有名ですが、邦訳がなされておらず未見。私家版の翻訳本は存在しますが、現在取り扱い停止中とのこと。