河原に落ちていた日記帳

趣味や日々の暮らしについて、淡々と綴っていくだけのブログです。

【読書備忘録】高橋直子『オカルト番組はなぜ消えたのか』(2019)

 UFOやUMA、或は幽霊、超能力、霊能力……そんな諸々のオカルト事象を扱ったテレビ番組を見て、心躍らせた人は多いのではないでしょうか。

 私はと言うと、2008年1月~3月にかけて放送されていた「未確認思考物体」という深夜番組が一番印象に残っています。これは各種超常現象を扱ったトーク番組で、オカルトに詳しい数人のおっさんたちが、その真偽はさておきその意義や意味について駄弁っていくという素晴らしい番組でした。出演者としては高野秀行氏、山口敏太郎氏、秋山眞人氏など、「濃い」メンツばかりでした。

 さてそうしたオカルト番組が、どうも最近減っているんじゃないか? と言うのが本書のテーマです。70年代~80年代にかけて興隆したオカルト番組が、どうして現在「消えた」のか。著者の高橋氏は、宗教学の見地からその理由に迫っていきます。

〈内容紹介〉※Amazon商品紹介欄より引用
 1974年の超能力ブームに始まり、ユリ・ゲラーネッシーや雪男、80年代から90年代にかけてのノストラダムス矢追純一のUFO、心霊写真、霊能力者・宜保愛子、そして2000年代のスピリチュアル・ブーム……。

 1958年の「テレビ放送基準」以来、「迷信は肯定的に取り扱わない」と定めているにもかかわらず、なぜオカルト番組は熱狂的な支持とバッシングの渦のなか続いていたのか。

 「謎」や「ロマン」を打ち出し、視聴者が半信半疑で楽しむエンターテインメントとしてオカルト番組が隆盛を極めたことを掘り起こす。そして、スピリチュアル番組へと移行して「感動」や「奇跡」の物語へと回収されることで、オカルトの内実(真偽)が問われ、終焉へと至った歴史的なプロセスを明らかにする。

 

 まず本書に対する違和感として、「オカルト番組ってまだあるよね?」という疑問が浮かびます。実際、本書冒頭には「二〇一八年現在、オカルト番組がまったく放送されていないわけではない〔p9〕」と書かれているため、書名については読者の目につきやすいよう、あえて「消えた」と大げさな表現がなされているのでしょう。

 ちなみに、本書は著者による博士論文を基に書籍化したもので、元の論文名は「オカルト番組をめぐるメディア言説―〈オカルト〉の成立および〈スピリチュアル〉へ至る変遷〔p257〕」というものらしいです。オカルト番組は「消えた」のではなく、内容が変化した、というニュアンスでしょう。

 では本書の目次から、その構成を見てみましょう。

はじめに

序 章 テレビと〈オカルト〉の邂逅―オカルト番組前史
 1 心霊術の流行
 2 週刊誌ブームと心霊ブーム
 3 オカルト番組を出現させたメディア空間

第1章 オカルト番組のはじまり―1968年の「心霊手術」放送
 1 「放送基準」の〈迷信〉と〈オカルト〉
 2 1968年11月14日放送『万国びっくりショー』
 3 なぜ、あたかも真実のごとく放送されたのか

第2章 オカルト番組の成立―1974年の超能力ブーム
 1 増える〈オカルト〉
 2 超能力ブームの顚末
 3 オカルト番組はなぜ成立したのか
 4 オカルト番組批判のパラドクス

第3章 オカルト番組の展開―1970年代・80年代の比較分析
 1 1970年代のオカルト番組
 2 成立後のオカルト番組
 3 1980年代のオカルト番組

第4章 拡張する〈オカルト〉―第二次オカルトブーム
 1 〈オカルト〉と「精神世界」
 2 “テレビ幽霊”騒動のメディア言説
 3 一九九〇年代のオカルト番組

第5章 霊能者をめぐるメディア言説―1990年代・2000年代の比較分析
 1 宜保愛子をめぐるメディア言説
 2 江原啓之をめぐるメディア言説
 3 〈オカルト〉と〈スピリチュアル〉

終 章 オカルト番組の終焉
 1 テレビと〈オカルト〉と「宗教」
 2 オカルト番組が存在した事由
 3 オカルト番組の終焉、これからの課題

おわりに

 

 まず本書で言う「オカルト番組」について、著者は次のように定義しています。

超能力(者)、霊能力(者)、超常現象、心霊・怪奇現象、未確認飛行物体(UFO)、未確認生命体(UMA)など、超自然的現象を企画の中心とする出し物とし、かつ、その真偽を積極的に曖昧にする傾向があるテレビ番組をいう。〔p9〕

 その上で、「二〇〇〇年代のスピリチュアルブームを牽引した江原啓之出演番組」も本書ではオカルト番組として扱われていますが、それらオカルトの真偽を積極的に明らかにしようとする番組は、本書で言うオカルト番組には含まれない、とします。

 とは言いつつ、実際のところ本書で中心的に扱われているオカルト事象は、超能力・霊能力・スピリチュアルにほぼ限られており、UFOやUMA、予言などについてはあまり言及されません。この辺りは、著者が宗教学専攻であることによる取捨選択かもしれません。

 

 さて本書では、副題の通りオカルト番組を巡る「メディア分析」が行われているのですが、テレビ番組というものは基本的に一回放送されればそれきりという一過性の強いコンテンツです。

 そのため過去のテレビ番組を直接確認することは困難であり、研究する上での難しさが予想されるのですが、著者は週刊誌や新聞記事などの文献資料を駆使して、オカルト番組に対する世間の反応を分析しています。

 そうしたメディア分析を通じて、オカルト番組はその真偽についてはとやかく言わず、オカルトを興味本位の「見もの」として視聴者に提示することで成立することになった、と著者は言います。

 そうしたオカルトがブームになるにつれ、オカルト番組の内容を批判する言説(大槻義彦氏による批判が代表的)も出てきますが、そうした批判も合わせてエンターテイメントとして消費されることになります。つまりオカルト番組への批判によって、逆説的にオカルト番組は支えられることになります。

 90年代以降、ニューエイジ運動に端を発する「スピリチュアル」がオカルト番組に取り入れられます。本書ではそうした番組を「〈スピリチュアル〉番組」と称し、半信半疑のエンターテイメントとしてオカルトを取り扱った「〈オカルト〉番組」と乖離していく状況が述べられています。

 スピリチュアル番組はオカルト番組と違い、「視聴者がスピリチュアルを信じること」を前提とした作りとなっており、それはオカルトの本来持つ宗教性を顕現させることになります。それはスピリチュアルを信じない視聴者の反感を呼ぶこととなり、「半信半疑のエンターテイメント」とはなり得なくなります。

 そしてオカルト番組が「終焉」を迎える理由を、以下のように結論付けます。

 オカルト(occult)は、本来の異端性を維持してこそ、知的に魅力的な存在となる。オカルト番組の〈オカルト〉は、「謎」「ロマン」であればこそ、「楽しむ」「遊ぶ」エンターテインメントとなる。「謎」「ロマン」は、明示的であれ暗示的であれ、現実や〈常識〉に対置されるところに成り立つ。裏返せば、現実や〈常識〉と〈オカルト〉の境界が曖昧になる/融合する場では、「謎」「ロマン」は消失する。したがって、〈オカルト〉番組も消えゆくことになる。〔p248〕

 

 著者はこのように、「〈オカルト〉番組から〈スピリチュアル〉番組」への移行を基本的な構図として描いているようなのですが、個人的にはここに素朴な違和感を覚えます。

 2000年代以降、「オーラの泉」などのスピリチュアル番組が多く放送されていたのは確かですが、同時にいわゆる「超能力捜査官」など、本書でいう〈オカルト〉番組も、ゴールデンタイムで放送されていた覚えがあるからです。私もリアルタイムでそうした番組を楽しんでいたものですが、それは著者にとっては「例外」ということになるのでしょうか。

 また週刊読書人ウェブにおける本書の書評にて、「オカルト番組の定義から終焉まで、緻密な調査をもとに入り組んだ論説が展開されるが、視聴率や制作本数のデータは明かされず、〝なぜ消えるのか〟という根拠を受け入れるべきか、戸惑いもつきまとう。」と指摘されているように、数字的なデータが示されていないため、「オカルト番組の終焉」というそもそもの前提が正しいのかよく分からないという問題もあります。

 もう一つ個人的な興味として、オカルトブームの終焉として地下鉄サリン事件が大きな契機となったという言説はよく語られていますが、実際のところサリン事件はオカルト番組に影響を与えたのでしょうか。本書でその点は論じられていないため、少し気になったところです。

 そんなこんなで問題も指摘され得る本書ですが、「オカルト番組」という実態の捉えにくい対象を通史的に分析した本書は、貴重な労作として評価され得るものだと思います。

 テレビのオカルト番組は、「真偽をとやかく言わない視聴者(像)」によって成立しました。そしてテレビがマスメディアとして影響力を低下させつつある現在、オカルトを拡散させるメディアはインターネットへと場所を移しているのかもしれません。

 しかしネット上のオカルト言説は、本書で言う「オカルト番組」と比べ、半信半疑のエンターテイメントとして消費する余裕はなさそうに思えます。信じる人と信じない人との分断が起きているのです。

 今後、オカルトはどのように語られていくのか。陰謀論のはびこる現在において、無視できない問題だと思います。

 

〈おまけ〉
著者である高橋直子氏によるインタビュー記事がありました。本書の大まかな論旨が分かります。

book.asahi.com