河原に落ちていた日記帳

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【オカルト本を読む】佐治芳彦『謎の竹内文書』

謎の竹内文書―日本は世界の支配者だった!

古史古伝」と呼ばれる文献群がある。

 一言では、「古事記日本書紀以前の書」として紹介されることが多い。実際には近世から近代にかけて書かれた偽書ばかりなのだが、「正史からは抹消された真実の歴史が記された書物」だという触れ込みで、歴史のロマンを掻き立てるアイテムの一つとして時おり言及されることがある。

 その古史古伝の中で一番有名なものが『竹内文書』だ*1。これは天津教という神道新宗教の教主だった竹内巨麿という人物が、先祖伝来の神宝として公開していた文献類の総称である。第25代天皇武烈天皇が、日本の真の歴史を伝える文書を臣下の平群真鳥武内宿禰の孫)に託し、それが竹内家に代々守り伝えられたものだという。

 内容としては、8000億年以上にまで至る長大な神々の系譜が連なり、アメノミナカヌシやアマテラスが神でなく天皇として位置づけられているほか、エホヴァや盤古など海外の神々も登場し、その上モーセやイエスブッダ老子ムハンマドなど、宗教史における大物たちが次々と来日して日本で思想を学んでいたことを示す資料などがあり、古史古伝の中でもひと際破天荒な内容で知られている。

竹内文書』のあまりに異端的な内容は政権から危険視され、昭和11年(1936)伝承者の竹内巨麿は官憲により不敬罪で捕えられてしまう。しかし天津教は軍部に熱心な支持者を得ており、神宝や文献は軍人により靖国神社遊就館へと避難させられていたのだが、それも東京大空襲の戦火により失われてしまった。それに加え、狩野亨吉による文書鑑定により徹底的に偽書として糾弾されてしまい、『竹内文書』の史料的な価値は木っ端みじんに粉砕された。

 漢字以前の文字だという「神代文字」で書かれた内容や、神武天皇以前の73代にわたる謎の「ウガヤフキアエズ王朝」の存在、また伝説の超金属「ヒヒイロカネ」や古代のUFOとも目される「天浮舟(あまのうきふね)」といったSFファンタジー的な記述など、オカルトファンにとっては胸躍る素敵なエピソードが満載である。だがその実態は、竹内巨麿自身がこつこつと創作していった結果、内容が手に負えないほど壮大に成長していったものだった。

 その詳しい内容や『竹内文書』以外の古史古伝については、原田実『偽書が描いた日本の超古代史』などを参照してほしい。*2

 

 さて、そうした古史古伝の数々を題材とした本を書き人気を集めたのが、佐治芳彦という作家である。既に故人であり、亡くなったのは2012年以降のことらしいが、正確な時期などは分からない(藤野七穂「ベストセラー『謎の竹内文書』の著者・佐治芳彦」)。

 佐治は1979年、『竹内文書』を一般向けに紹介した書籍『謎の竹内文書 日本は世界の支配者だった!』を刊行し、一躍ベストセラー作家となった。以降、佐治は『東日流外三郡誌』や『秀真伝』など〝異端の史書〟を取り上げた作品を書き続け、「古代文明評論家」なる肩書が定着することになる。現在、著書は全て出版停止で、電子書籍化もされていないようだが、古書店などでその著書を見つけ出すことはそう難しくないだろう。

 なお佐治以外にも、同様の文献をもとに独自の異端的な歴史観を披露した研究家は数多く存在するが、本稿では便宜的にそうした研究家たちを「超古代史家」と呼称することにする。

 超古代史家たちの夢想的な史観の数々が、歴史学の俎上に載ることはまずない。偽書を素材に歴史を論じたところで、その歴史は偽史にしかならないからだ。

 しかし学者から無視されようとも、構わずに彼らは歩みを進めた。むしろ学術から無視されることこそが、逆説的に彼ら超古代史家のアイデンティティになっていたと言っていい。

 そして、異端の古代史を打ち出した本は、学術的な歴史本よりよく売れた。人々は幻の超古代文明に、何を求めていたのだろうか。

 

―内容―

『謎の竹内文書』が評判となったことで、徳間書店は書名に「謎の〇〇」と題する古史古伝シリーズを刊行し、後に〈謎の〝激史〟〉シリーズと名打たれることになる。本稿ではシリーズの始まりとなる『謎の竹内文書』を中心にその内容を見ていこう。記述の端々に細かいツッコミは入れたくなるだろうが、一切を放り投げて内容の紹介に移ることにする。

 

 まず本書の前書きにおいて、『竹内文書』の資料的な価値として以下の7点がいきなりぶち上げられる。

 一番目については、記事冒頭で述べたように海外の神々や宗教家が登場することなどをもって、佐治は『竹内文書』を日本一国の神話を超えた〈人類の「創世記」〉として評価する。次いでその偽書説にも言及しつつ、『古事記』も最古の写本は南北朝のものであることを引いて書写の時期は偽書の証拠にならないとし、『竹内文書』を〈古事記以前の書〉として評価するのである。

 3番目については、『竹内文書』は戦時中に時の体制から弾圧を受け、また同時期に研究者から偽書として批判されたことで、『竹内文書』は現在まで語ることがタブーの〈禁断の書〉となったのだという。

 4番目の〈日本人の存在証明(アイデンティティ)〉とは、佐治によれば日本人の持つ宗教観がそれだという。日本人は年中行事や人生儀礼において、神道・仏教・キリスト教など様々な宗教が雑多に混淆しており、それがキリスト教イスラームなど一神教を奉ずる国とは異質な特徴なのだと述べ、佐治はその宗教感覚のルーツを『竹内文書』に求めている。

 5番目は、佐治自身の持つ天皇制への眼差しが強く反映されている。彼が言うには、天皇制とは日本人の持つ「厄介な問題」であり、万世一系などは「不合理な観念」である。にもかかわらず日本人は長い歴史の中で天皇制を捨てることができず、「天皇制コンプレックス」は現在まで日本人を呪縛している。しかし『竹内文書』は、天皇の系統を神武天皇よりはるか以前に遡って記述しており、その行間から天皇制成立の裏事情を読み取ることで、天皇制コンプレックスから抜け出すヒントになると主張する。

 6番目も上の問題と関連している。佐治は『竹内文書』の記述中に、現在の皇統と別種の王朝が神武以前に存在していた暗示を読み取る。そして天皇制支配に長きに渡って抵抗してきた人々の存在まで見出し、歴史史料から抹消されてきた彼らこそが〈日本の正統な支配者〉だと主張している。

 最後の〈古代文化大革命〉なる聞きなれない用語についてだが、佐治によれば漢字導入以前の日本には独自の文字である「神代文字」が存在した。しかし「簡単な神代文字を捨てさせ、難解な漢字を強制することによって、国民の知的レベルを低下させ」た勢力があり、彼らは神代文字を漢字に置き換えさせることで、列島支配の正統性を奪取し、日本古代史を漢字によって書き替えたのだという。

 前書きにおいて披露されるこの歴史観が、本書ひいてはシリーズ全体を貫く基本的な世界観となっていると言って過言ではない。以下本書では、上記7点の歴史観が『竹内文書』をベースとしながら詳細に解説されていると考えていい。

 

 本文は全6章構成になっており、前半第1〜3章で『竹内文書』の概要・内容を簡単に紹介し、後半第4〜6章では体制からの弾圧や専門家による偽書説など、文書にまつわる周辺の出来事が分かりやすく纏められている。

 しかし『竹内文書』自体がだいぶんぶっ飛んだ内容のため、その解説も必然的にぶっ飛んだものとなる。特に読んでいて印象的なのは、文書の記述から「エスパー天皇」の存在を見出したり、ムー大陸アトランティス大陸などを文書の中に見出すなど、有名なオカルトネタに絡めて解釈していく部分だろう。

 例えば代々の天皇が乗って万国を巡行したという「天浮舟」については、航空機や宇宙船、すなわち「空飛ぶ円盤」であった可能性を挙げ、傍証としてギリシャ神話やインド神話の中から同様の空飛ぶ乗り物らしき記述を引用し、古代日本には失われた超科学文明が存在した可能性を主張する……といった調子である。

 しかし解釈は別としてもその内容紹介自体は分かりやすく、加えて山根キクや酒井勝軍といった戦前の超古代史家たちの動きも紹介されており、『竹内文書』に関わる主要なトピックを的確に抑えている。

 第3章までの佐治の「竹内文書観」をまとめると、日本にはかつて世界中にまで影響を及ぼす文明が発達していたが、いくつかの大陸が海中に沈むような大災害を経て徐々に衰退していき、ある時点で王権が簒奪されて古代史の書き替えが行われた、ということになろう。

 続く第4章「古事記成立のかげに」ではまず、そもそもの「古史古伝」という言葉についての概要が解説される。佐治は『竹内文書』以外の古史古伝として、『上記』『宮下文書』『秀真伝』『九鬼文書』などを紹介し、それらの文献には5つの「共通の核」が存在するのだと指摘する(後述)。

 続けて佐治は、日本古来の精神文化が仏教や儒教といった外来思想に駆逐されていき、そうした思想に近しい渡来系の人々が真実の歴史を示す神宝を破壊しようと企てていった「万国史抹殺運動」について解説する。

 そして佐治が提唱するのが、「弥生文化大革命」なる仮説である。要約すると、かつて世界の古代文明の中心地であった日本は、地球を襲った大異変により文明のレベルが原始の状態まで後退した。その後の縄文時代の中で強力な支配力を手にした神武天皇は、文明再建の足掛かりとして大陸から農業技術など文物の輸入を行い、それに伴い「弥生技術官僚集団(テクノクラート)」が形成され、縄文の暮らしは弥生時代へと移り変わっていった。

 弥生技術官僚集団は、次第に日本を自らの文化で征服しようという野望を持つに至り、その野望達成のための手段の一つが、漢字の導入だった。彼らは便利な神代文字に代えて、複雑で難解な漢字を強制させることで、民衆の情報レベルを急速に低下させることに成功したのである。こうして神代文字で書かれた国史は忘れ去られ、漢字で書き替えられた国史が正史にとって変わった……。

 佐治の言う「弥生文化大革命」のアウトラインに沿って言えば、「記紀は政権の簒奪者による偽物の歴史」ということになるのである。

 続く第5章「竹内文書継承者の歴史と受難」では、天津教開祖で『竹内文書』継承者の竹内巨麿にスポットが当てられ、その弾圧の顛末などが整理されている。当然ながら佐治は巨麿に対して擁護的な立場だが、注目できるのは『竹内文書』を「山の民」の伝承ではないかと示唆しているところだ。

 例えば、『竹内文書』の神代文字とかつて山中を漂泊生活していた「サンカ」と呼ばれる集団が使用していたとされる「サンカ文字」との類似や、竹内巨麿の出自が「山人」である可能性などを指摘する。彼らは弥生技術官僚集団と古代天皇制支配に取り込まれることに、最後まで抗い続けた部族であったと佐治は言う。

 つまり「山の民」こそが『竹内文書』の真の継承者であり、先の前書きに絡めて言えば、「山の民」こそが日本の真の支配者だという主張になるのである。

 最終章「開かれた文明論」では、ある意味最も佐治の独自な見解が開陳されている。佐治に言わせれば、天皇家は「どう見ても多系」であり、『竹内文書』の長大な天皇の系譜はなどはグロテスクな「億万世一系天皇論」だという。

 彼の見解では、もともと『竹内文書』に億万世一系と言えるような観念はなかったが、時代を経て書写が重ねられるに従って、皇国史観に「汚染」されていったのだという。

 佐治は『竹内文書』を現代に生かす道として、億万世一系論に代表される「天津教的天動説」と、悠久にすぎる時間的なスパンを捨て去るべきだと主張する。そうすることで竹内文書は偏狭で独善的な皇国史観から抜け出し、世界的な文明論と接続可能な「開かれた文明論」としての姿を取り戻すはずだ、とする。そのために竹内文書の全貌がいつしか明らかになることを期待して、本書は幕を閉じる。

 

古代史とオカルトの交差する場所

 本書がベストセラーとなった下地に、当時の古代史ブームが影響していたことは確かだろう。原田実氏の整理によれば、1960年代後半頃から邪馬台国の場所を巡る論争がブームとなり始め、その邪馬台国ブームを核として旧石器時代から8世紀頃までを対象とする「古代史ブーム」が70~80年代にかけて広がった(原田実「邪馬台国と超古代史」)。

 古代史ブームの特徴は、在野研究者や歴史学を専門としない学者など、言わば歴史学のアマチュアたちが主な立役者となっていたことだった。この構造は、「権威主義」たる歴史学者に毅然と反抗するアマチュア研究者、という構図を生み出した(原田前掲論文)。これは反権威主義、近代科学批判などといった当時の風潮と上手く合致し、現在でも「専門家」VS「アマチュア」というお決まりの構図となって続いている。

 こうした潮流と同時期に、日本では一方で70年代にオカルトブームが巻き起こっていた。超能力ブームの到来や『ノストラダムスの大予言』のヒットなど、わざわざここで説明する必要もないだろう。このオカルトブームが古代史ブームと合流する形で、古代史を更に巻き戻して幻想の超古代文明を見る「超古代史ブーム」が起こるのである。

 なお本文中で言及されているエーリッヒ・フォン・デニケンによる古代宇宙飛行士仮説(ピラミッドやナスカの地上絵など、古代の遺物を宇宙人が作ったものとする仮説)や、ジェームズ・チャーチワード『失われたムー大陸』は60年代後半から日本に紹介され始め、それが話題を呼んだことで70年代にかけて「失われた大陸」の言説が日本に広まっていった(藤野七穂超古代文明と失われた大陸ブーム)。

 佐治の『謎の竹内文書』はちょうどこうした世間の流行に乗って売り上げをのばしたのであり、それを踏まえて読み直すと、空飛ぶ円盤やエスパーなど流行りのオカルト言説が多数取り入れられていることに気付く。なお本書が刊行された1979年は、老舗のオカルト雑誌『ムー』が創刊された年でもあり、超古代史はこうした通俗オカルト雑誌などでも積極的に取り上げられて人気を博した。

 佐治は『謎の竹内文書』のヒットを受け、同年にすぐさま続編の『謎の神代文字』を刊行する。これは古史古伝の多くで使用されている漢字以前の文字(という触れ込みの創作文字)を紹介し、その真偽論争を解説したものである。

 続く『謎の東日流外三郡誌外』(1980)では、青森で「発見」された大量の古文書(実態は戦後の偽文書)の内容を整理して、中央政権に対する東北の抵抗の歴史を描き出し、『謎のシルクロード』(同年)では木村鷹太郎など異端的な日本文明論の数々を紹介し、日本人の起源を中央アジアに求める壮大な「シルクロード史観」を展開した。

 以降、佐治は『謎の〇〇』と題するシリーズを書き進め、古史古伝の内容を一般向けに分かりやすく紹介していき、独自の古代史観を打ち立てていったのである。

 佐治の作品は、古史古伝の内容を肯定的に扱っているという点で「オカルト本」であるのは間違いない。だが超古代文明の実在を主張し、歴史学者を藁人形として攻撃する一方で、佐治は神話学や言語学など学術的な議論について積極的に言及している。

 特に『謎のシルクロード』で顕著だが、佐治は大林太良や吉田敦彦氏など比較神話学の知見をしばしば援用しており、古史古伝中の説話を海外の神話と結びつける傍証として利用していた。また『謎の神代文字』では言語学の見地からの神代文字否定論を多くの頁を割いて解説するなど、異端説の紹介のみに偏らず学術的な議論も意識していたと思しい。

 つまり、オカルト本でありながら学問的な色合いを出していることが佐治の特色の一つであり、その巧みなバランス感覚が当時の超古代史ブームの中で突出していたのではないかと考えられる。ありていに言えば、今でも読んでいて「面白い」オカルト本になっているのである。

 

古史古伝」の発明

 ところで先ほどから、さも当然のように「古史古伝」という言葉を繰り返し使っているのだが、実はこの単語を一般に広めたのは、何を隠そう佐治芳彦その人である。とは言えこの用語を作り出したのは佐治自身ではなく、戦後の超古代史家を代表する吾郷清彦[1909-2003]の用いた用語がそのネタ元だった。

 吾郷は『古事記以前の書』(1972)において、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』を「古典三書」、『竹内文書』『九鬼文書』『宮下文書』を「古史三書」、『上記』『秀真伝』『三笠記』を「古伝三書」として分類している。分類の基準は明確にされていないが、「古典」は学界に認められている古代史文献、「古史」は神代文字に関する伝承を伴う文献、「古伝」は全編が神代文字で書かれた文献、というくらいの意味合いだと考えられる(原田実『偽書が揺るがせた日本史』)。

 吾郷の分類はそもそもの概念規定が不明確なうえ、後の著書になると「古史四書」「古伝四書」「異録四書」「大東四書」という風にいつの間にか文献や分類が追加されているなど柔軟性に富みすぎるものであり、学術的な分類としては到底使えない。しかし佐治は、吾郷の「古史」と「古伝」という用語を一つにまとめて〝古史古伝〟という造語に作り変え、「異端の史書」の数々をこの用語の中に放り込んだのである。

 佐治は『謎の竹内文書』で、古史古伝古史古伝たらしめる5つの「共通の核」があると主張する。以下にその5点を要約しておく。

  1. 古代の苛烈な政治闘争に敗れ、没落した豪族の家系の伝承を伝えている。
  2. 古事記』『日本書紀』に含まれない情報──特に神代の部分──が多い。
  3. 神々や天皇の行動範囲が日本だけでなく全地球的に渡っている。
  4. 公開、出版され人目を引くと、多くの場合で治安当局から弾圧されている。
  5. 神代文字が登場する。

 一見もっともらしく思えるが、偽史ウォッチャーの藤野七穂氏が細かく検討している通り、一つひとつに必ずしも当てはまらない文献も多い。佐治が重要視する4についても、体制側から弾圧されたと明確に言えるのは『竹内文書』と『九鬼文書』くらいしかない(藤野七穂偽史源流行③ 偽史の“共通の核”と系統」、同「「古史古伝」は公開されると時の政府から弾圧された」)。

 佐治が古史古伝に分類した文献は、内容的に関連するものもあるが、基本的には成立過程や内容などが多種多様であり、それらを一括りにまとめる分類として使用するには大いに無理がある。佐治の言う古史古伝に「共通する核」があるとすれば、全てが偽書であるという一点くらいだろう。

 その後、他の研究家も古史古伝の語を使い出したが、概念が不明瞭なまま様々な「古代文献」がこの用語の中に分類された結果、時を経るごとに文献の数だけが増加するようになった。佐治が『謎の竹内文書』の時点で挙げた古史古伝は10種類だけだったが*3、1996年時点での原田実氏・森克明氏による「古史古伝総覧」では、挙げられた文献の数が30種類以上にまで膨れ上がっている(『別冊歴史読本 古史古伝の謎』)。こうなるともはや、超古代史のロマンを掻き立てる文献を「古史古伝」の名の下に見境なく詰め込んでいるだけだ。

 恐らく「古史古伝」という用語が、学術用語として確立することは未来永劫ない。しかし成立の経緯が怪しい、胡散臭い文献の数々を放り込むための用語として、古史古伝は非常に優秀なおもちゃ箱であったと言える。今後「古史古伝」は、一種のオカルト用語として生き永らえることになるだろう。

 

反体制的超古代史観

 佐治は『竹内文書』を通して、天皇制や権威主義への批判を繰り返し表明している。しかし『竹内文書』それ自体の内容を一目見れば分かるだろうが、その根底にあるのは「日本こそが世界文明の発祥地であり、その権威の中心は天皇にある」という、強烈なまでに国家主義的なイデオロギーである。

 そのため『竹内文書』の内容を肯定的に紹介するのであれば、国家主義的な色合いが濃くなるのが自然であるように思われるのだが、佐治は逆に『竹内文書』を反体制の古代文献として読み解き、国家主義的な部分は「後世の皇国史観に汚染されたもの」と捉えたのである。この幾重にも倒錯した読解が生じたのは何故だろうか。

 実際、戦後の古史古伝研究をリードした吾郷清彦や鈴木貞一[1897-1980]といった超古代史家の論では、天皇万世一系神話を補完するものとして古史古伝を扱う傾向があった。そうした方向性の一つの極致が、古史古伝を用いて神武天皇の実在を論じた林房雄神武天皇実在論』(1971)である。

 しかしその一方で、界隈では新たな風が吹き始めていた。すなわち、古史古伝を「歴史の敗者の側から書かれた古代文献」として解釈するムーブメントであり、この動きの先陣を切ったのが武内裕『日本のピラミッド』(1973)であった(原田実「戦後「古史古伝」研究の展開と波紋」)。ちなみに武内裕とは、八幡書店代表取締役武田崇元氏が使用していたペンネームの一つである。

 同書の内容は、『竹内文書』や『カタカムナ文書』の記述を基に、ピラミッドは古代日本の超科学文明から世界に広まったものだと説き、様々な日本の山を人造のピラミッドとして認定するものである。しかしここで注目しておきたいのは、武内氏の主張する古代史観だ。彼は縄文人を超科学文明の末裔だと言い、天皇家は日本を侵略した弥生人の子孫だと断じた。つまり、天皇家は政権の簒奪者だと断罪したのである。

 佐治は武内氏の作り出した流れを受けて、『竹内文書』含む古史古伝の数々を反体制的に解釈したのだと考えられる。実際、『謎の竹内文書』には武内氏の書籍に言及する箇所がある。

 この時期の思潮を振り返ると、70年代前後は全共闘運動や連合赤軍の武力闘争が話題となっており、反体制・反天皇制など左派的な動きが力を持っていた時代だった。そうした思想史的背景が、古史古伝解釈に反映された可能性が指摘されている(原田前掲論文)。

 また同時期に大ヒットした『ノストラダムスの大予言』が、当時「現代科学文明批判」の書として受容されていたことを思い起こしてみると、オカルトブームは「行き過ぎた科学文明」へのカウンターとしての一面を持っていたことが指摘できる。その現代科学文明を批判する論者たちは、それに代わるものとして超能力や心霊現象など非正当的な「代替知」を求めたのであり、その流れは80年代の精神世界ブームへと受け継がれていく。超古代史家たちは、腐敗する現代文明に代替する文明として、幻想の超古代文明を眺めていたのかもしれない。

 しかし70年代半ば辺りから古史古伝論壇が反体制的な主張に転換したのかというと、話はそう単純でもあるまい。例えば同時期に登場した鹿島曻[1926~2001]という超古代史家は、天皇家朝鮮半島から渡ってきて日本を支配した一族だ、と一見反天皇制的な主張をしているのだが、一方で「天皇家は野蛮な原日本人を一掃し、日本を文明化してくれたのだ」という皇室への屈折した尊崇の念を持っていたことが知られている(原田実『日本トンデモ人物伝』)。

 また佐治や武内氏のように反体制的な姿勢をとる超古代史家についても、「かつて日本には世界中に影響を及ぼす超古代文明が存在したのだ」という風に空想の過去によって現代日本を荘厳しようとする姿勢について言えば、天皇や体制に対するスタンスは真逆でも民族主義的・国家主義的な方向性自体は軌を一にしていると言える。超古代史に対して物言わぬ歴史学者を、「権威」の一つとして激しく攻撃する点も基本的に同じだ。

 古史古伝研究は70年代半ばに至って反体制的に転換したというより、左派的な思想運動やオカルトブームとの混合によって、内容が多様化したというのが実情ではないだろうか。そして超古代史家たちは、自分が見たいものを各々好きなように超古代史の中に投影したのである。

 

オウム・ショックという挫折

 古代史ブーム自体は担い手の世代交代もあって90年代に至る頃には下火になっていたが、超古代史ブームは若い世代のファンを取り込むことで、細く長く続いていた(原田実「邪馬台国と超古代史」)。しかし90年代初頭から、それまでとは違った形で古史古伝が論じられる機会が増えた。すなわち、古史古伝を「偽書」として内容を批判する論調である。

 1992年、ある訴訟事件を嚆矢として、東北史の間隙を埋める古文書と目されていた『東日流外三郡誌』の真贋論争が活発化していく。江戸時代成立のはずの古文書に、現代語としか思えない単語が頻出するなどで、明らかに現代人が創作した偽文書だと糾弾された(斉藤光政『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」』)。

 90年代初頭は「と学会」の発足(1992)など、オカルトネタを面白おかしく批判する「トンデモ」という視点が広まりつつあった時期でもあり、恐らくそうした風潮からも古史古伝を「偽書」として、また超古代史を「偽史」という前提で論じていこうという流れができていったのだろう。

 また90年代半ばに超古代史の動きを大きく挫くことになった出来事が、言うまでもなくオウム真理教による地下鉄サリン事件である。オウムは超能力や終末予言など、様々なオカルト言説を寄せ集めて教勢の拡大に利用していたため、事件後はオカルトへの忌避感がメディアに広まることになった。そして、超古代史もその内の一つであった。

 超古代史にとってまずかったのは、1985年にオウム教祖の麻原彰晃がオカルト雑誌『ムー』に「幻の超古代金属ヒヒイロカネは実在した⁉」なる記事を投稿していたことである。現在、某有名スマホゲームのアイテムとして知られるヒヒイロカネだが、元ネタは先述の通り『竹内文書』の中に登場する金属である。

 記事の中で麻原は、ヒヒイロカネの実物を岩手の山中で発見したほか、『竹内文書』信奉者であった酒井勝軍の「日本は戦争に負ける」といった隠された予言も知った、などと主張している。原田氏は「この記事を見る限り、開教当時のオウムは八幡書店の書籍やその広告の影響を受けた偽史運動だったと考えざるを得ない」と指摘する(原田実『偽書が揺るがせた日本史』)。

 元々『竹内文書』や『九鬼文書』などが新宗教団体の教典として成立したことを考えれば、後発の宗教団体がその内容を換骨奪胎して教義に取り入れることは不自然なことではない。実際、真光系の教団は明らかに『竹内文書』の内容を教義に取り込んでおり、何もオウムに限った話ではない(塚田穂高「霊的世界観・手かざし・心霊研究・超古代史を新宗教の場で接合させた岡田光玉」)。

 しかし超古代史が宗教思想の形成と大きく関わる以上、間接的であれ超古代史がオウムという教団を生んだこともまた明らかであり、超古代史は人畜無害な「ロマン」として扱いにくくなってしまった。風評被害を受けるような形ではあるが、こうした事態の蓄積は徐々に超古代史ブームに陰りを与えていった。

 

古史古伝」から「偽書」へ

 しかしノストラダムスと比べて超古代史や古史古伝が幸運だったのは、事件後に思想史的な文脈でそれらの内容を見ていこうという気運が現れたことだろう。長山靖生偽史冒険世界』(1996)はその先駆的な例で、『竹内文書』や神代文字、また義経ジンギスカン説や日ユ同祖論などの言説を「偽史」という言葉で括り、その言説が現れた時代の社会背景を考察した名著である。

 他方、超古代史家たちが散々に罵倒していたアカデミアの世界では、実は彼らの批判とは無関係に偽書研究に繋がる方法論が少しずつ積み重ねられていた。例えば、中世史専門の網野善彦は偽文書を精神史的に分析する手法を示したり、中世思想史においては中世に書かれた偽書をその当時の知的営為として分析する「中世日本紀」「中世神話」といった概念が提唱されるなど、主に中世史の現場からの動きが注目される。

 そうした方法論を近世・近代以降の偽書(いわゆる古史古伝)に適用できる可能性を指摘したのがフリーライターの藤原明氏で、近世以降の偽書を中世の偽書の内容とリンクさせて捉え直す試みを行っている(藤原明「〈中世日本紀〉と”古史古伝”」、同『日本の偽書』)。

 しかし学問的な目が徐々に向けられるようになってくると、問題になるのは「古史古伝」という括りである。先述の通り、古史古伝は学術用語として使用するにはだいぶ無理のある概念であるため、それに代わるより妥当な分類案が求められた。例えば先の藤原明氏は「近代偽撰国史」という用語を提案し、他方で藤野七穂氏は偽史を7つの系統に分類する案を出している(藤原明「近代の偽書―”超古代史”から「近代偽撰国史」へ」、藤野七穂偽史源流行③ 偽史の”共通の核”と系統」)。

 しかし、近世中期に成立したと考えられる神道書(『秀真伝』など)と、大部分が戦後に創作された偽文書の束(『東日流外三郡誌』)が同列に並べられている時点で、必然的に分類としては無理が生じてしまう。

 この点については原田実氏がある座談会の場で「そもそも古史古伝という言葉自体はある程度その正当性を主張するためにつくられた枠組みでもあるわけだから、偽書であることを認めたら、従来の研究は解体せざるを得ない」といみじくも発言している通り(田中聡×長山靖生×原田実「古史古伝の出現と近代日本の迷走」)、今後偽書研究が進展するとすれば、偽書の分類という枠組み自体が不必要なものとなっていくのかもしれない。

 

 ところで、本稿の主役たる佐治芳彦も、こうした研究動向に無反応だったわけではない。佐治は90年代半ば以降しばし超古代史からは距離を置き、近現代史や戦史ものの執筆に注力していたが、2004年に『[超新論]古史古伝』で再び古史古伝論を著した。

 同書執筆のきっかけとなったのは、同年に刊行された『別冊歴史読本 徹底検証・古史古伝偽書の謎』だったらしく、たびたび文中で言及されていることからもかなり意識していたことがわかる。『歴史読本』は何度か古史古伝の特集を組んでいるが、これは初めて古史古伝偽書という前提に立って特集されたものだった。佐治はこれを受けて界隈のトレンドの変化を感じ取り、原田実氏の助力を得ながら『[超新論]古史古伝』を書き上げたという(藤野七穂「ベストセラー『謎の竹内文書』の著者・佐治芳彦」、及び原田氏のTwitterでの教示による)。

 佐治は同書の中で、安易に古史古伝偽史とする風潮に異議を申し立て、網野善彦の偽文書研究や中世日本紀の方法論など、佐治なりに最新の研究動向を踏まえながら、古史古伝に一定の史料的価値を見出すことを試みている。しかし古史古伝を「敗者による怨念の歴史」だとする信念を曲げられなかった辺りに、超古代史家としての佐治の限界があった。

 恐らく今後、佐治の仕事が学術的に評価されることはないと思われる。しかしその正否はともかくとして、彼は「古史古伝研究」の中で無視できない爪痕を残したのは確かだ。

 偽書研究の中で、「古史古伝」が学術的な分類案として不適当だと批判されていることは先に述べた。その代わりに提唱された分類案も十分とは言えないものではあったが、それは「古史古伝」というオカルト的な文脈から偽書を切り離すために必要な手続きであったと言える。

 2000年代以降の偽書研究は、オカルト的な古史古伝や超古代史を乗り越えるための努力がなされてきた。しかしその前段階には、吾郷や佐治といった超古代史家らが担った「古史古伝研究」の蓄積が存在することは事実で、現在の偽書研究がそれらと全く無関係であるとは断言できない。先行研究と言うのは大仰かもしれないが、佐治もその「研究」を担った一人ではあったと思う。

 だが「古史古伝研究」を乗り越えようとした偽書研究も、しばらくは在野の研究者たちが主力を担うという構造は変わらず、アカデミズムの視線がなかなか向けられなかったのは確かである。たびたび本稿で論を引いている原田実氏・藤野七穂氏・藤原明氏といった諸氏も、在野の立場で発信している研究者である。

 だが近年になって、立教大学にて近代の偽史言説を対象としたシンポジウムが開かれるなど、徐々に学術的な目線が偽史偽書に対して向けられているようだ(小澤実編『近代日本の偽史言説』)。

 良くも悪くも、この領域は長らく在野研究者たちの独壇場として一種の聖域となっており、戦後から連綿と玉石混交の議論が積み重ねられている(必然的に石が多めだが)。もしも今後、さらに偽書に対して学術的な議論が進展するとすれば、在野での蓄積をいかに位置付けるかが課題となるのかもしれない。

 

古史古伝」の今

 偽書研究については大枠だけを概観したが、現在オカルトとしての「古史古伝」に新しいトピックはあるのだろうか。結論から言えば、古史古伝の話題もずっと続いてはいるが、流石に古いネタの再生産が繰り返されているというのが偽らざる現状だろう。もっとも古史古伝に限らず、オカルトネタ全般に言える話ではあるが。

 だが古史古伝が全く力を失ったのかと言えば、そんなことはない。例えば『秀真伝』は現在でも信奉者を増やし続けており、酒瓶のラベルデザインに用いられるなど、地域おこしにも普及つつある(『京都新聞』2020年9月20日付)。「古史古伝」の中でも、かなり求心性の強いものと言えよう。

 また『宮下文書』関連で、近年新たな展開があった。山梨県の宗教法人・不二阿祖山太神宮は教義の中心に『宮下文書』を据えているのだが、この新宗教団体が2017年に開催したイベントでは、安倍昭恵前首相夫人や石破茂氏・谷垣禎一氏など、野党含む国会議員約70名が顧問に参加していた。更にこのイベントには、政府各省庁や九州・関東・東海各地の自治体が後援に参加するなど、体制に弾圧されるどころか体制が間接的に『宮下文書』を応援するような構図が見られた(原田実『偽書が揺るがせた日本史』)。

 またホツマ文字やカタカムナ文字などの「神代文字」を体に描くことで、身体のけがれた場所を「浄化」するなど、古史古伝がスピリチュアルの一部に取り入られるという展開も観察できる。

古史古伝」と呼ばれた偽書の数々は、時代ごとの人々の願望や欲望を呑み込みながら成長していった。だからこそ、古史古伝は現在でも暗がりの中から怪しい光を放ち続けているのである。

 

《参考文献》

 

 蛇足ではあるが、いわゆる「古史古伝」含む偽史について、お勧めの入門書を以下に示しておく。

偽書が揺るがせた日本史

偽書が揺るがせた日本史

  • 作者:実, 原田
  • 発売日: 2020/03/28
  • メディア: 単行本
 
日本の偽書 (河出文庫)

日本の偽書 (河出文庫)

  • 作者:明, 藤原
  • 発売日: 2019/05/07
  • メディア: 文庫
 

*1:竹内文献』という表記が用いられることも多いが、本稿では基本的に佐治の表記に準ずる。なお、他の文献についても同様。

*2:ネット上では同氏によるこちらのサイトの「コラム」欄にて、古史古伝の数々が紹介されている。

*3:竹内文書九鬼文書、宮下文書、上記、秀真伝、三笠記、東日流外三郡誌、物部文書、安倍文書、カタカムナ文書。