河原に落ちていた日記帳

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【読書備忘録】由谷裕哉『近世修験の宗教民俗学的研究』(2018)

近世修験の宗教民俗学的研究

近世修験の宗教民俗学的研究

 

  今年になって刊行された、近世修験の研究書です。地元の図書館にリクエストして入荷してもらいました。

〈内容紹介〉岩田書院公式ページより引用
 本書では、序論と第一部第一章で、認識論(近世修験をどう捉えるか)および方法論(その対象をどう研究するか)について議論し、続く第二章以降と第二部で事例研究を展開する。

「本書で取り上げた主要事例の神ー仏関係について、近世における寺院-神社の位置関係に注目して眺めてきた。(中略)
 しかしながら、神祇と仏教が習合して何らかの新しい宗教形態が生まれたのは中世までのことであり、近世の段階では、権現という共通の崇拝対象に複数の異なる出自の宗教者がそれぞれの仕方で奉斎した、と考える方が各事例に適合するのではないだろうか。例えば、修験は採燈護摩、不動慈救呪の読誦、法螺、等々に従事した、というふうに。(中略)
 そして、各々の事例における儀礼に関与した近世修験は、別当である天台真言僧、その配下の衆徒、また場合によっては社家あるいは在俗の者とも連携しながら、自らの出自に即した手法によって霊山と同一視される権現を奉斎したのではないか、という仮説を結論としたい。」(本書「結論」より)

 

 こんな記事を作っておいて何ですが、私は研究者でも何でもなく、また好事家と自称できるほどの知識量もないので、研究への的確な批評はできません。しかしこうした研究書の感想を書くようなブログというのもまず無いと思いますし、折角なので個人的な備忘録も兼ね、読みながら考えたことをだらだらと書いていこうと思います。

 私が近世における修験道に興味を持ったのは、大学時代にとある霊山信仰をテーマとして卒論を書いていたからです。大学をとっくの昔に卒業してしまった今となっては意味もないことですが、そうした経緯で何となく近世修験と聞くと体が反応してしまうのです。

 本書の著者である由谷裕哉氏は、過去にも修験に関する複数の論文・研究書を刊行されています。またそれ以外にも、郷土史に関する編著や、『サブカルチャー聖地巡礼』なる書籍も編集されており、研究領域はかなり多岐に渡るようです。*1
 私自身は『近世修験道の諸相』に収録された論考*2を過去に読んだことがある程度で、氏の研究にはほとんど触れたことがないため、今後興味が出れば他の著作も拝読するかもしれません。

 さて本書の構成としては、以下の目次から成っています。

序 論 近世修験という対象について

第一部 柱松と近世修験
第一章 修験道系柱松をどう捉えるべきか-和歌森太郎五来重の所論を踏まえて-
第二章 北信濃小菅権現の祭礼における柱松と修験者
第三章 妙高関山権現の夏季祭礼における柱松
付 論 復活した戸隠神社の柱松神事

第二部 近世修験の諸相-里修験・修正延年・里山
第一章 岩手県宮古市の里修験 -津軽石・長沢地区に焦点を当てて-
第二章 六日祭修正延年と近世修験
第三章 里山と近世修験 -白山加賀側と石動山の例から-

結 論

 近世修験を論じる枠組みは、和歌森太郎氏による中世修験の堕落した姿と捉える位置付けがかつて主流であったのが、近年では宮本袈裟雄氏の見出した「里修験」という概念から、日常的に庶民と関わり宗教活動を行った修験者の姿が注目されています。

 しかし由谷氏は、「和歌森太郎も宮本袈裟雄も近世修験を各地の霊山を渡り歩いて苦行する、生き生きとした修行者ではなく、地方の村落に定着した村の呪術師的な存在と捉えている〔p8〕」とし、両者の近世修験に対する理解は本質的には同じと指摘します。

 そして、「苦行性を軽薄化させ里に定着した呪術師的宗教者」という近世修験像を〈和歌森ー宮本パラダイム〉として相対化し、本書では「近世修験の有していた多様な宗教的側面を考察する〔p21〕」ことを目標としています。

 近世修験に関する近年の論考では、和歌森氏を否定的に、宮本氏を肯定的に評価することが多いイメージだったので、こうした枠組み自体を批判する由谷氏の主張は私の目には新鮮に映りました。

 なお近世修験にアプローチするための方法論として、由谷氏は題名にも掲げる「宗教民俗学的」手法を採用しています。

 由谷氏の言葉を引用すると、「宗教民俗学的」手法とは「儀礼など民俗事象あるいは文書の形をとるテキストを取り上げる場合、そこから遡及して何らかの古態を求めるのではなく、そうしたテキストが含まれる文脈を重視する立場〔p7〕」とのこと。

 かつての民俗学では、現在観察できる祭礼などの民俗事象から、過去へと遡って文化の「古態」または「古層」「本質」などといった、実態の不明確なものを見出そうとする傾向にありました。現在でもこの傾向は根強く残っているように思います。
 そうした潮流に対し由谷氏は、ある時点で行われていた民俗事象は、あくまでその時点における現象として分析すべき、という立場を取っているのだと個人的には解釈しました。*3

 実際に第1部1章では、「柱松」*4という民俗事象に関する先行研究として、和歌森太郎氏と五来重氏による緒論を批判的に検討しているのですが、由谷氏は両者の議論が「反証可能仮説の形で提示されていない」「和歌森や五来のような民俗学者は、複数の事例を比較して古型へと遡及しようとする志向があるのかもしれないが、こと修験道研究においてそれは全く生産的ではない〔p44〕」と批判しています。

 特に五来氏の所論に対する批判は印象的であり、「その根拠は明らかにされていない〔p40〕」「後述する議論と矛盾するように思われる〔p40〕」「上記のような不可解な根拠に基づいていたとは驚くべきである〔p41〕」などの言葉を使って、なかなか手厳しい評価を下しています。

 後の第2部2章における事例研究でも五来氏の先行研究が検討されていますが、やはり痛烈な批判が展開されています。これは五来氏の本質主義的な議論が、由谷氏の「宗教民俗学的」手法と全く相いれないことを示すものと思います。

 続く第1部1章以降は、実際に「宗教民俗学的」手法による事例研究が展開されます。私がここで一つひとつの研究について批評していくことはできませんが、本書を通読して改めて実感したのが、修験者は歴史的に実在した存在だったということです。至極当然のことではあるのですが、これは意識しないとなかなか実感しづらい。

 これは修験者に限らずですが、宗教者と言うとどうしても人は幻想的な存在としてイメージしがちです。事実、加持祈祷を受けていた「普通」の人々は神秘的な眼差しで彼らを見ていたでしょうし、かつての民俗学者もある種のロマンチシズムから、空想的な宗教者像を幻視しがちでした。具体的には、日本の「基層信仰」を伝えているものたちとして。

 しかしそうした修験者も、一人の生きた人間には違いありません。彼らの宗教行為は、自らの生きる方法として行われていたはずです。言ってしまえば、彼らは日々を生きるための生業として、人々に加持祈祷を施していたのです。

 そうした社会的存在である以上、当然他の宗教者との関わりや緊張関係が生じます。由谷氏はかつて修験が関与していた祭礼行事の近世史料を丹念に検討しながら、修験と僧侶・社家、また在俗の者などとの関係を明らかにしています。第1部1章では、修験と社家との緊張関係が儀礼に変化を及ぼした可能性も指摘しています。

 そうした事例研究を積み重ねた上で、由谷氏は最終的な結論の一つとして、記事冒頭で引用した考察へと至ります(「しかしながら、神祇と仏教が習合して~」〔p308-309〕)

 

 さて、久しぶりに本格的な研究所を手に取りましたが、なかなか読みごたえがありました。資史料に対し精緻な検討を積み重ねる本書のような研究は、儀礼の単純な比較検討に陥りがちだった従来の民俗学的研究と比べ、印象として説得性が段違いです。果たして私は説得力を持つ卒論を書けていたかどうか、今更ながら恥ずかしくなる次第。

 しかし惜しむらくは、私自身の修験道に関する知識が乏しすぎ、恥ずかしながら理解の及ばなかった箇所も多かったということです。

 今後は研究書を手に取る前に、修験に関する基礎知識を付けることが先だと改めて感じた夏の日です。

 

〈蛇足〉

祭礼行事「柱松」の民俗学的研究

祭礼行事「柱松」の民俗学的研究

 

  こちらは、由谷氏も事例として扱っていた「柱松」を中心とした研究書なのですが、奇しくも由谷氏の著作と全く同時期に、しかも同じ出版社から刊行されています。

 先行研究として和歌森太郎氏・五来重氏を中心に取り上げる点や、事例研究として長野県小菅神社の柱松を扱う点など、共通項も見られます。

 しかしパラパラと読んでみた限りの印象ですが、両者は視点や方法論が全く異なるため、当然ながら研究の内容も異なるものとなっています。

 もしかしたら今後、気が向いたら両者の内容を読み比べてみる記事を書くかもしれません。比較してどうするという訳でもないですが、折角なので。

*1:Twitter上には由谷氏本人と思われるアカウントがあります。覗いてみると、編著からも想像できる通りなかなかのアニメ好きでいらっしゃるようです。

*2:由谷裕哉 2013「近世権現社の祭礼における柱松と修験者-北信濃小菅権現の事例から」(『近世修験道の諸相』岩田ブックレット)。なおこの論文は、本書の第1部3章の元となっています。

*3:違ったらごめんなさい。

*4:「柱松」とは、由谷氏の定義では「切り出された樹木を柱のように加工したもの、もしくは木の幹や枝などを縛って柱状にしたものを、祭礼の場に一本または複数立ち上げた祭具、およびその頂上の御幣などの部分に点火する行事〔p31〕」のこと。修験道儀礼である「験競べ」の影響がよく指摘されますが、由谷氏は盆に民間で行われる柱松に対し、近世期に修験が関与した柱松を「修験道系柱松」と呼称して、両者を全く別の儀礼として区別します。