河原に落ちていた日記帳

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【読書備忘録】小松和彦『鬼と日本人』(2018)

鬼と日本人 (角川ソフィア文庫)

鬼と日本人 (角川ソフィア文庫)

 

 妖怪を文化史的に学問する「妖怪学」を提唱したことで知られる、小松和彦氏による最新の著作です。

 小松氏は角川ソフィア文庫において、これまで『神隠しと日本人』『呪いと日本人』『異界と日本人』の、〈怪異と日本人〉シリーズとでも呼ぶべき著作を刊行されていますが、今回のテーマは「鬼」。

 日本の「妖怪」と呼ばれるものの中でも、恐らく最も古い歴史を重ねてきたのが「鬼」という存在だと思いますが、それだけに「鬼」は日本文化に根強い影響を与え続けており、一筋縄ではいかない複雑な性格を兼ね備えています。

 妖怪学最大のテーマの一つである「鬼」に対し、小松氏はどのように迫っていくのでしょうか。

〈内容紹介〉※Amazon商品紹介欄より引用
 雷神、酒呑童子茨木童子、節分の鬼、ナマハゲ…古くは『日本書紀』や『風土記』にも登場する鬼。見た目の姿は人間だが、牛のような角を持ち、虎の皮の褌をしめた筋骨逞しい姿が目に浮かぶ。しかし、日本の民間伝承や芸能・絵画などの角度から鬼たちを眺めてみると、多彩で魅力的な姿が見えてくる。いかにして鬼は私たちの精神世界に住み続けてきたのか。鬼とはいったい何者なのか。日本の「闇」の歴史の主人公の正体に迫る。

 

 まず内容を紹介する前に、ごく個人的な意見を述べたいのですが……

 「民俗学と言えば、妖怪!」というような、ある意味不幸なイメージを民俗学に纏わりつかせてしまった人物の一人として、小松和彦氏の名前を挙げさせて頂きたいのです。

 いきなり挑発的に見えることを書いてしまいましたが、私は別に小松氏を非難するわけではありません。実際、私が民俗学に興味を持ったきっかけの一つが妖怪というテーマであり、小松氏の著作は私を民俗学の世界へと誘う道標となりました。

 そんな楽しくて興味深い小松氏の著作には、ファンも多いと聞きます。

 しかし、そんな小松氏の一面に騙されてはいけません。それは彼の真の姿ではない。

 小松氏の妖怪学関連の論考を読んでいると、いとも簡単に様々な事例や論拠を積み重ねているように見えるのですが、それは日本の古典文学や文化の膨大な知識を基礎として形作られた、氷山の一角です。実際に妖怪を研究するとなると、非常に煩雑な文献調査を緻密に積み上げなければ如何ともしがたい。これは妖怪に限らず、学問というものは皆そういうものなのですが。

 また、角川ソフィア文庫での小松氏は、一般向けに猫を被った文章を書いていることが多いのです。そうでないと理解できないので、当然のことではありますが。妖怪ファンの方には一度、小松氏によるガチの学術論文を読んでみてもらいたいです。恐らく大抵の人はビビるはずです。

 私も、小松氏による本格的な学術論文を読み、ビビりまくり、そして悟りました。

「俺、研究者にはなれんわ」と。

 そんなわけで私にとって小松和彦先生は、民俗学の道へと誘ってくれた方であり、同時に研究者への道を諦めさせてくれた方でもあるのです。本当にありがとうございました。

 蛇足ついでに付け加えると、民俗学は妖怪を研究する学問というわけではありません。妖怪を中心に研究したいのなら、たぶん近世文学史を勉強した方が満足できるんじゃないかなぁと思ったりします。

 それでは妖怪に対し愛憎相半ばする私の感情はここまでにして、本書の内容を紹介していきましょう。本書は、以下の目次で構成されています。

  • 鬼とはなにか
  • 鬼の時代―衰退から復権
  • 百鬼夜行」の図像化をめぐって
  • 「虎の巻」のアルケオロジー―鬼の兵法書を求めて
  • 打出の小槌と異界―お金と欲のフォークロア
  • 茨城童子渡辺綱
  • 酒呑童子の首―日本中世王権説話にみる「外部」の象徴化
  • 鬼を打つ―節分の鬼をめぐって
  • 雨風吹きしほり、雷鳴りはためき……―妖怪出現の音
  • 鬼の太鼓―雷神・龍神・翁のイメージから探る
  • 蓑着て笠来て来る者は……―もう一つの「まれびと」論に向けて
  • 鬼と人間の間に生まれた子どもたち―「片側人間」としての「鬼の子」
  • 神から授かった子どもたち―「片側人間」としての「宝子・福子」
  • あとがき

 本書は、小松氏が過去に発表してきた「鬼」に関連する論考を、各所から掻き集めて一冊に纏めたものです。そのため一冊の本としての一貫性はあまりありませんが、「鬼」を一つの切り口として、日本文化の様々な側面が論じられています。

 さて、小松氏の著作を読むに当たっては、2つの特徴を押さえておくとより理解しやすくなるんじゃないかと思います。

 一つは、小松氏は文化人類学畑出身の研究者なので、その論考には人類学の概念や理論が多く援用されているということ。本書の最後2つの論考における「片側人間」は、もろに人類学で提唱された概念ですね。

 もう一つは上と関連することですが、小松氏は構造論すこすこマンだということ。昔話や伝説などの口承文芸、また説話等を構造論を用いて解釈する試みを多く行っておられます。分かりやすいほどの構造論おじさんです。

 そんな小松氏による「鬼」論を集めた本書ですが、小松氏の「鬼」観は一貫しています。それは本書冒頭に収められた「鬼とはなにか」に端的に表されています。

「鬼」は「人間」の反対概念である。すなわち、日本人が抱く「人間」概念の否定形、つまり反社会的・反道徳的「人間」として造形されたものなのである。〔p6〕

 「鬼」とは、人間の対極に位置する存在として作られた妖怪だというのです。ではどうして、人々は「鬼」という存在を想像し続けなければならなかったのでしょう。この疑問に対する小松氏の答えは、以下の文章で包括できるでしょう。

鬼とは、実は人間という存在を規定するために造形されたものだということがわかってくる。日本人は、個としての人間の反対物として鬼を想定し、人間社会の反対物として鬼の社会を想定し、そうした反対物を介して、人間という概念を、人間社会という概念を手に入れたわけである。このために、人々は人間社会の「外部」に棲むという鬼についての数多くのストーリーをつむぎ出してきたのだった。〔p168〕

 この主張を最も前面に押し出した論考が、「酒呑童子の首―日本中世王権説話にみる「外部」の象徴化」だと思います。これは源頼光酒呑童子退治譚を「中世王権説話」と捉えて分析した論考です。酒呑童子退治譚では、天皇上皇を中心とした「王権」の〈外部〉の存在として大江山酒呑童子を位置付けられており、これを退治し「王権」という〈中心〉の内部に取り込むことによって、象徴的に「王権」の強化を表した物語である、と小松氏は主張します。

 人間は、自らを人間として認識するために、絶えず「鬼」のような〈外部〉を創り出さなくてはならなかった。これは「鬼」がリアリティを喪失した現代社会においても、人のアイデンティティを巡る問題として示唆深い指摘だと思います。

 こういった感じで、小松氏は巧みに「妖怪」という存在を通して興味深い問題提起を行い続けているのですが、こうして小松氏の著作を読んで妖怪に興味を持ったが最後、完全に小松氏が作り出した「妖怪学」という沼の深淵に入り込んでいるのです。

 そして「妖怪についてもっと知りたい」と思った方は、膨大な数の古典文学や民俗報告書を読む羽目になり、これで立派な調査研究者の誕生です。

 どうかくれぐれも、小松氏の仕掛けた罠にまんまと嵌ってしまわぬよう、お気を付けください。