【読書備忘録】『怪異学の地平』(2018)
怪異・妖怪と称される「不思議な物事」の学術的な研究と言えば、小松和彦氏による一連の「妖怪学」関連の著作や、氏の主導する国際日本文化研究センターの共同研究プロジェクトが有名です。
しかし日文研が民俗学・国文学的な枠組みでの妖怪研究を中心に推し進めるのに対し、「不思議な物事」の歴史学的な研究の必要性を主張して結成されたのが、東アジア恠異学会です。変換しにくい
本書は東アジア恠異学会が世に送り出す、「怪異学」の最新の論文集となります。
〈内容紹介〉※Amazon商品紹介欄より引用
怪異をめぐる言葉、怪異とよばれる事象、怪異をもたらすもの―それらは何であるのか、怪異学研究の最先端を明らかにする。
東アジア恠異学会の二〇一五年度からの三年間の研究の蓄積をまとめたもの。
この間のテーマは、「〈他〉の認識と怪異学」。
人々が何を「他」と認識してきたのかを考える。
本書は、怪異学の初発からの問題意識である「怪異」という語に関する「1〈怪異〉をめぐる言葉の定着」、〈他〉の認識に係る「2〈異〉〈他〉の広がりと認識」「3〈神仏〉と〈化物〉の間」の三つで構成し、十四編の論考を収録した。いずれの論考も怪異学のこれまでの研究の蓄積をふまえ、新たな可能性を模索する内容となっている。
東アジア恠異学会は2001年に発足され、現在までに6冊の研究書を刊行しています。
以前、一冊目の論文集『怪異学の技法』を読んだことがあるのですが、その序文には本会発足のきっかけとなった西山克氏の問題意識が述べられています。
国際日本文化研究センターの研究グループは、(中略)人間学・総合学としての「妖怪」という提言にもかかわらず、じつはその執筆メンバーに歴史研究者が一人も含まれていなかった。怪異・妖怪概念を時系列上に布置して理解しようという考えを、この共同研究グループはその当初からほとんど持っていなかったのである。民俗学と国文学を基調とした総合的研究の画期性を充分に認識しながらも、私はその点に強い違和感を感じていた。
(東アジア恠異学会編 2003『怪異学の技法』臨川書店、p11)
国際日本文化研究センターで怪異・妖怪伝承データベースを構築した小松和彦氏の妖怪学は、超自然的存在で人々に祀られているものが神、祀られていないものが妖怪という定義を持っているが、(中略)妖怪概念は優れて近代的な性格をもっており、時系列を無視して神概念に位相変換できるようなものではないからである。
私たちは怪異の語を選んだ。(同上、p12)
日文研の「妖怪学」に対し、歴史学的な研究用語として、「妖怪」ではなく「怪異」の語が選ばれた、とのこと。
実際には東アジア恠異学会も学際的な怪異研究を目指しており、歴史学だけでなく国文学や美術史などの研究者も交ざっています。ただ「不思議な物事」に対し、民俗学的・国文学的なアプローチを採るか、歴史学的な方向性を重視するかといった、ベクトルの違いがあるのではないかと思います。
本会発足のきっかけだけを読むと、まるで日文研の共同研究と対立しているような感じを受けますが、別に仲が悪いというわけでもないと思いますし、両者の論文集を読み比べてみることによって「不思議な物事」への理解がより立体的に得られるのではないでしょうか。
では本会最新の著作である本書の目次を見てみましょう。
序文(西山克)
1.〈怪異〉をめぐる言葉の定着
・日本古代の「怪」と「怪異」―「怪異」認識の定着(大江篤)
・異と常―漢魏六朝における祥瑞災異と博物学(佐々木聡)
・日本古代の「祟」の成立とその周辺―西大寺の建設をめぐって(久禮旦雄)
・室町時代石清水八幡宮の怪異(山田雄司)
・近世怪異が示す射程―ひろたまさきの「妖怪」論を手がかりにして(木場貴俊)2.〈異〉〈他〉の広がりと認識
・妖怪・怪異・異界―中世説話集を事例に(久留島元)
・「キリシタン」の幻術―『切支丹宗門来朝実記』系実録類と地域社会の「キリシタン」(南郷晃子)
・六朝志怪における西方仏教説話の選択受容(佐野誠子)
・海の驚異―異界・異類についての博物誌と物語をめぐって(近藤久美子)3.〈神仏〉と〈化物〉の間
・「妖怪」を選ぶ(化野燐)
・「件(くだん)」の成立―近世の古代的言説「近世的神話」の中で(榎村寛之)
・護符信仰と人魚の効能(笹方政紀)
・蜘蛛塚考(村上紀夫)
・睡虎地秦簡『日書』詰篇にみる神・鬼・人―『日書』の担い手を探る(大野裕司)特別寄稿:地平の彼方と椽の下(京極夏彦)
あとがき(大江篤)
アカデミズムに籍を置く研究者が多数を占めるのは当然ですが、化野燐氏や京極夏彦氏のような小説家を本業とする人物も参加しているのが特徴的です。
京極氏については、日文研の共同研究にも論考を寄稿したり*1、その他学術的な交流を積極的に行っていることでも知られています。氏の論考が専門家からどう評価されているかはともかく、こうした学問的な土俵に立って意見を戦わせることができるのは、かなり凄いことではないでしょうか。学者を罵倒するだけして、議論しようとしない作家のどれだけ多いことか
さて、文献上に表れる「怪異」を歴史学的に分析するのが本会の目的なわけですが、ではその「怪異」とは何かというのはなかなか厄介な問題です。「怪異」という用語については本会公式HPで簡単にまとめられているので、一部抜粋してみましょう。
…現代社会で通俗的に使用される「怪異」が示す不思議なことと、古代の記録に残る「怪異」が示す出来事とは、異なっていた。すなわち、鳥が集まる、狐が鳴くといった動物の行動や、火山の噴火、地震、異常気象などの自然現象をさす場合が多かった。
本来この語は、中国古代の災異思想にもとづく。前漢の武帝に仕えた儒学者、董仲舒の天人相関説にもとづく考え方である(『漢書』董仲舒伝)。天と人の行ないが連動し、為政者である皇帝の失政を戒めるために、天が「災害」「怪異」を起こすのである。「怪異」は「災害」と対になる語であったことがわかる 。
(中略)
ところが、王の失政を戒める天については、わが国では定着せず、神の祟とそれを認定する卜占のシステムが日本古代の怪異認識の形成に影響を与えている。したがって、日本古代の怪異は、国家システムによって認定され、政治的な予兆として記録に残されているのである。
時代がくだると一般の貴族や知識人が、国家システムが認定する予兆に限らず、個人の日記などに「怪異」を記録するようになった。「怪異」には以上のような歴史的変化があることに注意したい。(東アジア恠異学会 怪異学用語集より)
古代の「怪異」とは、現在イメージされるような「怖いこと」「恐ろしいこと」というニュアンスとは異なっており、政権が認定する何らかの「予兆」であった、と言います。
つまり歴史学的に見ると、文献上の「怪異」は多分に政治的な色彩を帯びていることが、現代人から見て特徴的に映ります。ある一つの「怪異」に対して、何らかの政治的な解釈が施されるわけです。これは現在に残された文献史料の性格にも依るのでしょうが、怪異と王権との密接な関係は本会の著作を通読して理解ができます。
また「怪異」を何らかの政治的な予兆とするなら、それは「怪しい不吉な出来事」だけでなく、「縁起の良い瑞兆」も「怪異」として捉え得ることは注意しなければなりません。
しかしそんな「怪異」という言葉の指し示す対象については、京極氏が『技法』で色々と指摘するように*2、ことにややこしいとしか私には言いようがありません。本書でも大江論文が、文献の丁寧な読み解きにより古代の「怪異」の意味合いについて論じているのですが、恐らく学術用語としての「怪異」の定義は、この先繰り返し詰め直しが行われるものと思います。
さて、折角なので本書で個人的に印象深かった論考を紹介しますと、榎村寛之氏の「『件(くだん)』の成立」と、村上紀夫氏の「蜘蛛塚考」が興味深く読めました。
榎村論文では、近世末期に現れる予言獣としての件(くだん)がどのように成立したのか、一つの可能性を提示しています。
「件」に関わる史料として、17世紀前半成立の『簠簋抄』という文献の中に書かれた、陰陽道系の説話に現れる人頭牛身の「件(けん)」という異類の存在が指摘されていましたが、それが近世末期の「件(くだん)」とどう関係するかは不明でした。
榎村氏は二つの「件」を繋ぐ可能性のある史料として、近世期の皮革産業に関わる人々が所持した由緒書き(いわゆる「河原巻物」)の中に「件」という牛が登場することを指摘し、陰陽道系の説話→近世的に再解釈された神話→都市伝説的に語られる世間話という風に「件」の語られる場が変化していった、という新たな説を提示しています。
なにぶん史料が少ないため、推測を重ねた立論になっている印象はありますが、近世における神話伝承の、国学とはまた違った変遷の一端が示されており、興味深く思います。*3
村上論文は、京都にかつて実在した「蜘蛛塚」という塚の歴史について分析されています。小松和彦氏は「祭祀されない超自然的存在」を「妖怪」とする定義を提唱し*4、これが通説的な妖怪理論となっている訳ですが、この理論を蜘蛛塚の歴史から実証的に検証を図ったのが村上論文と言えそうです。
結論としては蜘蛛塚の管理主体によって、それに関わる伝承が選択的に変化していく様相が明らかにされており、通説ほどに単純な話ではないことが示されています。小松氏の理論は、主に神話や説話伝承などの分析から導き出されたものかと思いますが、それを実際の歴史に照らし合わせて検証した論考は新鮮でした。
この他にも興味深い論考は多々あり、近藤論文のような中東世界の「驚異」を論じたものなど、日本以外の「怪異」にも焦点が当てられていることは注目すべきです*5。
ただ惜しむらくは、近現代への射程が弱く感じてしまうこと。強いて言えば、本書では柳田國男による妖怪の捉え方の変遷を分析した化野論文が近代に関わるくらいで、この点は日文研の共同研究の方がより力を入れているように感じます(基本的に「現在」を対象とする民俗学との差別化を図るためかもしれませんが)。
とは言えこの感想は、『技法』と『地平』の2書だけを読んだ現時点でのものです。これから東アジア恠異学会がどういった方向へ研究の舵をとっていくのか注目すると同時に、本会による他の著作も追々読んでいきたく思っています。