河原に落ちていた日記帳

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【オカルト本を読む】『別冊実話特報』

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 今回は、ちょいと小粒な記事をば。

 個人的な話から始まって恐縮だが、筆者は今年の10月31日、京都の知恩寺で開催された「秋の古本まつり」に繰り出してきた。そこで入手した資料の一つが、1950年代に刊行されていた雑誌『別冊実話特報』の、以下の4冊である。

  • 第7集「魔境に挑む探検隊の記録」
    昭和32年7月発行
  • 第9集「謎に眠る暗黒大陸(アフリカ)」
    昭和32年10月発行
  • 第15集「秘境に埋れる黄金伝説」
    昭和33年10月発行
  • 第21集「山の魔性と砂漠の怪奇」
    昭和34年10月発行

 各号1000円で売られていたのを衝動買いした。折角なので今回は、この『別冊実話特報』を取り上げることにしたい。

『別冊実話特報』は1957年(昭和32年)から双葉社で刊行された月刊誌であり、創刊から2年で完結したが、ピーク時には毎回15万部を売り上げる人気誌だったという。

 本誌の『実話特報』は戦後のカストリ雑誌の流れを汲み、いわゆるエロ・グロ・ナンセンスに主眼を置いた構成であったが、それに対し『別冊実話特報』は世界の未開社会に残る「食人」や「首狩り」などの「野蛮」な風習や、日本人からは奇妙に見える性風俗、また人跡未踏の地に眠る財宝の風説など、〈秘境〉を主要なテーマとしていることが特徴であった。

『別冊実話特報』自体は1959年に終了したが、その後1960年代の出版界では「秘境」を書名に冠する書籍が急増し、空前の「秘境ブーム」が到来した。『別冊実話特報』は秘境ブームの基礎を築いたと言って間違いない。

 それどころか、秘境ブームは70年代に興るオカルトブームの前身となったと評価されている。つまり『別冊実話特報』はオカルトブームの下地をもなした雑誌として、無視できない位置づけを占めるのである。

 

 秘境ブームについては、飯倉義之氏や金子毅氏による先行研究が存在する(飯倉義之「美しい地球の秘境」、金子毅「オカルト・ジャパンの分水嶺」)。本稿では主に両者の仕事に依りながら、『別冊実話特報』とその時代を眺めていきたい。

 まずは、筆者が入手した『別冊実話特報』各号の目次を転載しておこう。そこに並ぶ扇情的なタイトルを眺めるだけで、雑誌の大体の雰囲気は掴めると思う。

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第7集「魔境に挑む探検隊の記録」

 

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第9集「謎に眠る暗黒大陸

 

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第15集「秘境に埋れる黄金伝説」

 

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第21集「山の魔性と砂漠の怪奇」

 まさに、往年の「川口浩探検隊シリーズ」(1977〜85)を地で行くようなラインナップである。もっとも、川口浩探検隊はこうした秘境モノの持ついかがわしさを逆手に取り、過剰な演出と明らかなヤラセで人気を博したシリーズであった。川口浩探検隊と『別冊実話特報』の時代では、〈秘境〉の持つリアリティが異なるということは認識しておく必要がある。

 さて、『別冊実話特報』は主に秘境をテーマにしていると言いつつも、その内容全体を要約するのは難しい。概ね史実に沿った記事もあるが、与太話と思しき実録記事も多く、タイトルだけ大層で中身は大したことのない記事もしょっちゅうである。

 過去のバックナンバーの目次も見てみると、「宇宙人は地球を狙っている」「世界征服を信ずるユダヤ人」「太平洋に沈むレムリア大陸」など、既に70年代的なオカルトネタが出揃っていることも注目できる。

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第7集より、バックナンバーを抜粋。70年代オカルトブームで扱われるような話題が既に出揃っていることが分かる。

 良くも悪くも雑誌らしいごった煮感だが、その上で読み進めていくと、あるお決まりのパターンに沿った記事が多いことに気付く。

 先進国から繰り出した探検者が秘境に赴き、苦難の末にその他の原住民と接触する。探検者はその原住民に招き入れられるか、あるいは連れ去られるかして集落に入り、そこで食人や首狩りなどの残虐な儀礼や奇妙な性風俗を目撃し、最後に命からがら逃走して帰還する……といった筋である。

 言うまでもなく、こうした「未開」への眼差しは偏見と蔑視にまみれたものだ。「土人」「野蛮人」などの蔑称も数多く使われており、現代の観点からすると苦笑いせざるをえないが、本稿はそうした部分をあげつらいたいわけではない。

 それよりもおさえておきたいのは、〈秘境〉が「エロ・グロ」をめぐる猟奇的な好奇心の受け皿として機能している点であり、その点ではカストリ雑誌の系譜をしっかり受け継いでいる。記事の真偽そのものはともかく、『別冊実話特報』に出てくる〈秘境〉は具体的な地名や文化を併せ持つ「実話」の舞台であり、読者は記事を通して「未開」に蔓延る「猟奇」を疑似体験したのである。

 そして読者にとって特に印象に残ったであろうものが、雑誌冒頭のグラビア写真である。『別冊実話特報』は毎号の冒頭に、世界の絶景や原住民などの迫力ある写真を掲載していた。これもまた、読者に〈秘境〉の雰囲気を体感させるものとして機能したであろう。

 まだ海外渡航が難しかった時代では、こうした雑誌記事が〈秘境〉をめぐる主要な情報源の一つだった。言い換えれば、当時における一種の「海外体験」または「異文化体験」だったのかもしれない。

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第九集「謎に眠る暗黒大陸」より。秘境雑誌では、こうしたグラビア写真がふんだんに用いられた。

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第7集(左)と第9集(右)より。所々に箸休めの一コマ漫画があるのも特徴である。今となっては問題視されるであろうネタも多いが、これもまた当時の空気を窺う資料の一つではある。

『別冊実話特報』では扇情的なハッタリを存分にきかせた記事がほとんどだが、60年代になると人類学的な「学術調査」の装いがなされた秘境モノが多くなるのも、秘境ブームの特徴の一つである。これは、当時の人類学調査をめぐるメディアとアカデミズムの関係が影響していた。

 1950年代半ば、日本は神武景気による経済復興を果たし、戦後の落ち込みから立ち直ろうとしていた時期だった。同じ頃、日本の人類学も再出発を図っていたが、何しろ先立つ資金と調査するフィールドがない。この状況の解決策として確立されたのが、アカデミズム側が新聞社をスポンサーに迎えて世界の〈秘境〉を調査するという形式であった。

 当時はメディア側も海外渡航が制限されていたが、調査団に撮影隊を同行させる形で海外取材が可能となった。つまりはアカデミズムとメディアの利害が一致したことが、秘境ブームに至る大きな一因となったのである。

 合同調査の成果は逐一新聞や雑誌で報道され、一般向け書籍や写真集といった形で日本人に〈秘境〉への体験を与えた。こうしたメディアとアカデミズムの蜜月が60年代の秘境ブームを支えたのである。怪獣映画『モスラ』などでは、人跡未踏の地への調査に新聞記者などメディアの人間が同行する場面が見られるが、これも上記のような事情を反映したものと考えられる。

 さて、こうして興った秘境ブームがオカルトブームへ繋がっていくには、一人の仕掛け人の存在があった。『別冊実話特報』の編集を務めた人物、竹下一郎氏(1925〜)である。竹下氏は「篠田八郎」などのペンネームを使って自身でも記事を書き、いくつかの単著も著している。

 竹下氏の経歴については、田中聡氏がインタビューを行なっている(田中聡『ニッポン秘境館の謎』)。それによれば、竹下氏は1956年に双葉社に入社し、わずか半年後に『別冊実話特報』の編集長を任されたのだという。

 先に述べた通り、本誌の『実話特報』はエロ・グロを前面に押し出した雑誌であり、『別冊実話特報』もその路線を踏襲する予定だった。だが竹下氏は、単なるエロ・グロとは別の方向性を打ち出した。

俺、エログロは駄目だ、実話であればいいんだろ、つまりトゥルーストーリーってことだろって、しょっぱなにやったのが〝世界の二十大不思議〟。失われたレムリア大陸、セントエルモの火アレキサンドリア灯台……そんなのをズラッと並べて出してね、世界の七不思議を、俺、二十に増やしちゃったんだ(『ニッポン秘境館の謎』より)

 記事を書く際にネタ元になったのは、学生時代に集めていた探検記や民族誌の数々であった。雑誌冒頭のグラビアなどは『ナショナル・ジオグラフィック』などの洋書から「黙って失敬した」という。まだ著作権という観念の希薄な時期で、良くも悪くも「大らか」な時代だったのだろう。

『別冊実話特報』の完結後、竹下氏は新たな秘境雑誌『世界の秘境』シリーズを1962年から手がけることになる。『世界の秘境』では著名な研究者も書き手に招き、前作よりも学術性に重点を置いた構成になっていたが、「猟奇」への好奇心を読者に掻き立てる構成は踏襲され、再びの大ヒットを飛ばした。

 こうした秘境雑誌では、ムーやアトランティスなどの「失われた大陸」の話題や、ネッシーや雪男といったUMAネタが取り上げられることもあり、オカルトブームへ至る要素が秘境ブームに内在していたことは間違いない。だが、秘境ブームにおける受け手の眼差しは明らかに性やグロテスクといった「猟奇」に向けられており、オカルトはいまだサブ的な位置付けにあった。

 だが60年代後半を迎える頃に、秘境ブームは失速することになる。それまでの人類学調査を支えていたメディアとアカデミズムの蜜月状態が、各種の規制緩和により解消されたことが大きな要因だった。また海外旅行の自由化が、秘境モノに対してのリアリティを薄れさせたという面もある。

 竹下氏はこうした世情の変化に合わせるように双葉社を退社し、1967年に独立して大陸書房を創業した。そして大陸書房の記念すべき1冊目として刊行されたのが、チャーチワードの『失われたムー大陸 太平洋に沈んだ幻の大帝国』だった。「大陸書房」の名は言うまでもなく、「失われた大陸」にちなんだものである。

 大陸書房でも引き続き秘境モノの書籍は刊行されたが、70年代からはオカルトに力を入れるようになり、当時気鋭のオカルト作家たちが大陸書房から書籍を出版している。竹下氏は70年において、今度はオカルトブームを牽引する重要な役割を果たしたのである。

 しかしながら、60年代の秘境ブームと70年代のオカルトブームには間違いなく連続性が認められるものの、両者には質的に違いがあることも指摘されている。大道晴香氏によれば、両ブームとも近代合理主義とは相容れない「非合理」が求められているものの、秘境ブームでは受け手の側の合理性に一定の信頼が置かれ、近代社会の規範から外れる「非合理」が求められた。一方でオカルトブームにおいては、受け手の合理性自体を揺るがすような超自然としての「非合理」が希求されたのだという(大道晴香「一九六〇年代の大衆文化に見る「非合理」への欲望(Ⅱ)」)。

 つまり60年代においては、受け手の側が自分たちの持つ価値観を合理的だとある程度信用したうえで、「猟奇」の支配する〈秘境〉という場を設定し、その「非合理」の有様を楽しんでいた。しかし70年代になると、受け手の側の価値観に不信が生じ始め、既存の価値体系を揺るがせるような「非合理」が求められるようになった、と言えよう。要は「代替的な知」が持て囃されるようになり、その頃には〈秘境〉も「日本人が持っていない」あるいは「見失ってしまった」何かが存在する場所として見出されるようになっていく。

 しかし現在では、誰でも簡単に自宅で世界中の航空写真を見れるようになり、地球上に〈秘境〉という場は真に喪失してしまったのかもしれない。かつて〈秘境〉と言われた所も、実際には皆と同じ人間が日常生活を営み続けている、実に現実的な場所だった。

 しかし人は相変わらず、何らかの「非合理」を求め、〈秘境〉たる何かを追い続けている。その先は宇宙の果てか、はたまた深海の奥深くか。あるいは空想の超古代やシャンバラなのかは、辿り着いてみないと分からない。

 

《参考文献》

  • 飯倉義之 2009「美しい地球の秘境―〈オカルト〉の揺籃としての一九六〇年代〈秘境〉ブーム」(𠮷田司雄編『オカルトの惑星 1980年代、もう一つの世界地図』青弓社
  • 大道晴香 2018「一九六〇年代の大衆文化に見る「非合理」への欲望(Ⅱ)―「〈秘境〉ブーム」をめぐって」『蓮花寺佛教研究所紀要』11号
  • 金子毅 2009「オカルト・ジャパンの分水嶺―純粋学問としての人類学からの決別」(𠮷田司雄編『オカルトの惑星 1980年代、もう一つの世界地図』青弓社
  • 田中聡 1999『ニッポン秘境館の謎』晶文社
  • 中根ユウサク 2019「大衆オカルト雑誌の始まり」(ASIOS編『昭和・平成オカルト研究読本』サイゾー
  • 藤野七穂 2019「超古代文明と失われた大陸ブーム」(同上)