河原に落ちていた日記帳

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【オカルト本を読む】五島勉『ノストラダムスの大予言』

ノストラダムスの大予言 迫りくる1999年7の月人類滅亡の日 (ノン・ブック)

 今年7月21日、五島勉氏の訃報が報じられた。

 2020年6月16日、90歳で逝去されたという。ご冥福をお祈り申し上げます。

 

 さて五島勉氏といえば、オカルトを嗜む人間番外地の方ならわざわざ説明するまでもない有名人だろう。1973年に『ノストラダムスの大予言』という書籍を出版し、たちまちミリオンセラーを叩き出した世紀の大ベストセラー作家だ。

 著者自身想定外であったろう爆発的ヒットによりシリーズ化がなされ、初刊から98年までに計10冊の『大予言』シリーズが刊行された。シリーズ全体の売り上げは最終的に590万部を超えたという。ちなみに初巻については2014年に電子書籍化されており、現在でも読むことは容易である。

 その内容をかいつまんで言えば、「ノストラダムスというフランスの予言者が、1999年に人類が滅亡することを予言していた!」という主張を、当時の社会情勢を交えながら本一冊丸々使って説明したものである。以降のシリーズでも手を変え品を変え、「1999年滅亡説」が繰り返し主張されている。

 この「予言」が当たらなかったことは言うまでもない。今ではノストラダムスという名前すら知らない人も増えた一方、オカルトファンの間では有名なネタとして今も生き永らえている。オカルトに特に関心がない人でも、「1999年7の月、空から恐怖の大王が降ってくる……」というフレーズだけは何となく知っている人も多いだろう。

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今でもいらすとやでフリー素材化される程度には知名度がある

 しかしネタの知名度はともかくとして、五島氏の書いた『ノストラダムスの大予言』という著書自体を、出版から2つの年号を経たこの時代に読んでみた人はそんなにいないのではないだろうか。

 今となっては正直、本書を読み直す意味は特にない。滅亡説が外れたこともそうだが、本書で披露されたノストラダムスの人物像や予言詩の解釈も、大幅な誇張や(恐らく意図的な)誤り、明らかな創作部分が多く、ノストラダムスの研究書としても役に立たない。

 しかし70年代に本書が広い支持を得て、それから世紀末にかけても何らかの形で、一部の人々の世界観に影響を与え続けていたのは事実である。五島氏の「予言」が当たらなかったと言って今笑うのは簡単だが、どうしてそんな「予言」がかつて広く受け入れられ、それがどんな爪痕を残したのか、考えてみるのも無駄なことではなかろう。

(蛇足だがあらかじめ断っておくと、五島氏の訃報にかこつけてこの記事を書いた訳ではない。元々この記事を書こうと調べごとを進めていた最中に偶然訃報が重なり、結果的に訃報に合わせたような形になってしまったことを付記しておきたい)

 

─ 内容 ─

 舞台はパリの宮廷、ノストラダムスとアンリ2世が会見している場面から本書は始まる。そこでノストラダムスが、アンリ2世に対し10年以内に彼の死が訪れることを予言し、その通りにアンリ2世が死に至るというエピソードが紹介され、彼の超人的な予知能力を読者に印象付ける。

 そしてノストラダムスの書いた予言詩の一編としておもむろに挙げられるのが、あの4行詩である。

一九九九の年、七の月

空から恐怖の大王が降ってくる

アンゴルモアの大王を復活させるために

その前後の期間、マルスは幸福の名のもとに支配に乗りだすだろう

 著者はこれを「一九九九年の七月、何か途方もない災厄が世界におそいかかってくるらしい」と解釈し、「私たちは地獄にもまさる苦しみの果てに、悲惨きわまりない死を死んでゆかねばならない」「現在の人類は、そのとき『恐怖の大王』によって、事実上全滅させられるのだと見ておいたほうがよい」と読者の恐怖を煽る。

 しかしこの詩を本格的に解釈する前に、著者はノストラダムスによる他の予言の的中例を紹介し、その的中率が「ほとんど百パーセント」であるということをひたすら強調していく。

 例えばノストラダムスが王妃との会話の中で、未来には馬に代わる別の乗り物が登場し、世界は「カーキチ族」の溢れる車社会が到来することを予言したという話。また彼が飛行機による海外旅行ブームが来ることを予言していたという話や、ローンやクレジット支払いの広まりまでノストラダムスが予言していたと主張する。

 とは言えこうした「予言」は、著者による強引を超えた無茶苦茶な予言詩解釈によって導き出された結論である。車社会の予言で言えば、「Carmanie」というペルシャ湾岸の地方を指す単語を、無理矢理「カーマニア」と解釈する、といった調子である。

 しかし無茶な予言解釈でも、当時の環境問題や国際情勢と絡めて提示することにより、読者を不安にさせ内容を真に受けさせる効果を発揮したかもしれない。本書の中盤からは、予言解釈の内容が深刻なものになっていく。

 第2章はヒトラーフランコファシズムの台頭、原爆投下による日本の敗戦など、当時まだ記憶として遠い昔ではなかった第二次世界大戦の出来事を。第3章では大地震や彗星の衝突といった天変地異や、当時問題となっていた環境汚染問題などをノストラダムスの予言詩とこじつけていく。こうした事例を積み重ねていくことで、世界に終末が近づいているということを読者に印象付けていく。

 そして第4章からいよいよ、「恐怖の大王」の予言詩の解釈が進められる。本書では空から降ってくる「恐怖の大王」の正体として、①大空襲説・②ICBM(大陸間核ミサイル)説・③人工衛星説・④彗星激突説・⑤宇宙人襲来説・⑥光化学スモッグ説が挙げられ、このうち光化学スモッグ説が有力な解釈として扱われている。

 次に恐怖の大王によって復活する「アンゴルモアの大王」とは、破滅的な状況による民衆の世界的な暴徒化と解釈され、4行目の「マルス」の支配とは、暴徒化した民衆を抑えるために世界中の国家が軍国主義化し、全世界的な核戦争へなだれ込んでいくことと解釈される。

 その後は、ノストラダムスによる他の予言詩や聖書の『黙示録』まで引かれ、ひたすら絶望的な終末へのシナリオが描かれる。運よく生き残った人間も、「生き残ったとは名ばかりで、汚染や放射能にジワジワとむしばまれいずれは死ぬか、脳を犯されて狂うか、バカになってしまう」のだという。ただただ陰鬱な1999年より後の世界が、淡々と描写される。

 とは言え本書の最後では、〈付章〉として救済の可能性についても言及されてはいる。だが「彼の予言がまちがっていることはありえない」「一九九九年の破滅は、百パーセント確実におそってくるわけである。その前のさまざまの前兆的災厄も、もちろんまちがいなくおそってくる」などと予言の確実性を煽られる上に、そこで示される救済の可能性というのも、予言詩の解釈を若干楽観的な方向にずらすといった消極的なもので、読後感としては救済の希望よりも滅亡への絶望の方が強いだろう。

 また別の救済の可能性として、ノストラダムスキリスト教思想を根底として終末予言を行ったことから、仏教的な思想がこれに対抗し得るものだという可能性を著者は示す。「もう破滅は決まっているのだからダメだ、とするのがノストラダムス思想。決まっていても、その運命より人間の意志のほうが強いのだからひっくりかえせる、というのが仏教に見られる思想」なのだという。

 しかし全体として見ると、やはり希望よりも絶望感の方が読者としては強く印象付けられたのではないか。本書の最後は、以下の不安感が漂う文章で幕が下ろされる。

私が住んでいるのは、東京の中では、わりとおだやかな街のほうだが、それでも、きょうもそこには大量の排気ガスがまき散らされ、光化学スモッグ警報のサイレンが不気味に鳴りわたり、ラジオからは新しい公害と、軍備の増強と、物資不足と、海底火山や地震の続発を伝えるニュースが無感情に流れだしている。

 

─ 大ヒットと「終末ブーム」 ─

 本書は73年11月に初版が発刊されてからたちまち売り上げを伸ばし、わずか3ヵ月で公称100万部に至ったという。ちなみに筆者の所持しているものは、奥付によると同年12月発行の41版目のもの。今の出版不況からは考えられない売れ行きである。

 しかしながら、なんのバックグラウンドもなく本書が売れたわけでは当然ない。当時の社会情勢としては、高度経済成長の頭打ちや石油ショックによる物不足の不安など、日本経済に混乱が起こっていたほか、大気汚染や水質汚濁の深刻化など、環境汚染が本格的に問題化していた時期だった。「恐怖の大王」の正体が光化学スモッグとされたのも、実際にスモッグによる中毒事故が問題となっていた世情が反映されている。

 本書の裏表紙には、作家の森村誠一氏による推薦文が寄せられている。

 一読して、背すじが寒くなった。私はこれまで超能力とか予言というものを信じなかった。私が書いている、徹底した論理性を要求される推理小説分野に、このような〝超論理的〟なものを導入すると、推理ではなくなってしまうからである。だが本書を読んで、この予言は、偶然の積み重ねではないとおもうようになった。
 まさに空前絶後の大予言集であり、読者を震え上がらせる。ノストラダムスの予言は、恐ろしいことばかりであり、それがすべて的中している。恐怖と絶望をもたらす本書は、この予言の如くにならないように、現代の人間に対して四百年前に発せられた警告である。

 森村氏がどの程度真に受けていたかは分からないが、当時本書が真剣な「文明批判書」として受け止められていた空気を伝えるものである。無論当時から本書に対して懐疑的な批判を行う見方もあり、高木彬光ノストラダムス大予言の秘密』(1974)は解釈本批判として早い例である。しかし客観的な懐疑本より面白いオカルト本の方が人気を集めるのは今も昔も変わらない。

 同時期の創作物を眺めると、そのものズバリ環境汚染をテーマとした怪獣映画『ゴジラ対ヘドラ』(1971)や、小松左京SF小説日本沈没』(1973)がヒットし同年末に映画化されるなど、70年代前半の日本は「終末ブーム」と言える状況にあったことはつとに指摘されている。『ノストラダムスの大予言』もまた刊行の翌年に映画化され、年間興行収入2位を獲得する話題作となった(1位は『日本沈没』)。ちなみにこの映画化作品、現在ではトンデモ映画として誉高い一作だが、何故か当時の文部省が推薦していたことでも有名である*1

 ちょうどこの頃には、ユリ・ゲラー来日による超能力ブームや中岡俊哉『恐怖の心霊写真』に始まる心霊写真ブームなど、挙げればきりのないほどにオカルト的な事象がブームとなっていた時期でもあった。『ノストラダムスの大予言』もそうした時流に上手く乗ったことで売り上げを伸ばし、オカルトブームを牽引する一つの動力となった。

 また、本書が示した滅亡のタイミングも絶妙なものだった。遠すぎる未来の予言であればそのとき生きている人にとっては他人事でしかなく*2、近すぎてもリアリティが湧かない。「今から約四半世紀後に世界は滅亡する」という、遠すぎも近すぎもしない未来の終末予言は、特に若い世代にとって深刻に響いたと考えられる。

 

ノストラダムス・ブームの到来 ─

 本書が爆発的に売れたことにより、「ノストラダムス」という人物の名前もまた日本で一気に広まることになった。それまでも日本で紹介されていなかったわけではないが、一般にあまり知られていなかったその名前を広く普及させたのは、五島氏の功績であることは間違いない。

 しかし同時に、ノストラダムスの実像とは著しくかけ離れたイメージばかりが広まったのは、明らかに五島氏の罪過であった。

 先に述べた通り、五島氏の描くノストラダムスのエピソードはかなりの創作が加えられている。氏の行なった虚飾についての検証や批判は今まで散々行われており、あえてここでは言及しない。ノストラダムスの実像や詩の正確な翻訳などを詳しく知りたい方は、インターネット上では現ASIOS会員の山津寿丸氏の運営する「ノストラダムスの大事典」が非常に有用である。ノストラダムス歴史学・文学的な研究成果はもちろん、五島氏の著作含む「トンデモ本」まで詳しくまとめられており、筆者も大いにお世話になっている。

w.atwiki.jp

 また学術書としては、樺山紘一ほか編『ノストラダムスルネサンス』(2000年、岩波書店)という論文集や、フランス文学の専門家によるノストラダムス予言詩の翻訳書『ノストラダムス予言集』(1999年、岩波書店)など、学術的な研究書もちゃんと出ていることは付け加えておきたい。

ノストラダムスとルネサンス

ノストラダムスとルネサンス

  • 発売日: 2000/02/18
  • メディア: 単行本
 
ノストラダムス 予言集 (岩波人文書セレクション)

ノストラダムス 予言集 (岩波人文書セレクション)

  • 発売日: 2014/10/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 しかし『ノストラダムスの大予言』以降、日本においてはノストラダムスの学術研究の動きよりも先に、ノストラダムスの予言詩を恣意的に解釈して強引に著者自身の主張と関連付けるオカルト的なノストラダムスブームが巻き起こった。田窪勇人氏は『大予言』以降のノストラダムス受容史を、73年-78年の第1期、79年-89年の第2期、90年代の第3期と分けて考察している(田窪勇人「日本におけるノストラダムス受容史」)。

 第1次ブームは言うまでもなく五島氏の著作から始まるもので、雑誌や新聞などでたびたび紹介されたほか先述の映画化により幅広い層へ「1999年滅亡説」の情報が広まった。ただし当時はノストラダムスに関する資料が日本では少なかったために、類似本が書かれることはあまりなかった。

 しかし79年末にシリーズ2作目『ノストラダムスの大予言Ⅱ』が出版されると、それを皮切りとするかのように予言解釈本が大量に出版されるようになる。80年代前半には、五島氏以外の解釈本の増加という形で第2次ブームが到来した。内容としては当時の冷戦体制を反映して、第三次大戦勃発からの核戦争による滅亡を想定したものが多い。

 これらの解釈本も、下手をすれば内容は五島作品以上にただならぬもので、言葉遊びを超越した予言詩の魔改造により導き出される常人には理解不能な未来予言はもちろんのこと、中にはノストラダムスの霊と対話して真実を明らかにしてしまう者まで現れた。こうした状況の中、学術的なノストラダムス研究はいまだ低調のままだった。

 加えて80年代のノストラダムス論壇で注目されるのは、宗教団体によるノストラダムス予言詩の利用が見られるようになることである。例えば阿含宗桐山靖雄は81年に、幸福の科学大川隆法は88年にノストラダムス関連の書籍を出版している。

 90年代に入ってからは、冷戦体制の解体やソ連崩壊による国際秩序の変化、またバブル崩壊などの世情を反映した予言解釈本が激増した。第3次ブームの到来である。この時期は宗教ブームとの密接な関わりも指摘されており、ノストラダムスを布教に利用した教団の中にはあのオウム真理教も含まれている。

 当然ながらそのほとんどは「トンデモ本」なわけだが、この時期になると「と学会」周りを中心とした予言解釈本への批判が盛んになってくる。代表的なものとして、山本弘『トンデモノストラダムス本の世界』(1998)を挙げておく。これは五島氏以降の独りよがりな予言解釈者たちの書籍を、一つひとつ細かく突っ込みを入れながら面白おかしく紹介した名著である。1999年7月前後に出たノストラダムス本もカバーした同『トンデモ大予言の後始末』(2000)と併せて読めば、当時のノストラダムスブームの雰囲気を大まかに掴むことができるだろう。

 

─ 『大予言』のもたらしたもの ─

 五島氏は後年、「1999年世界滅亡という部分だけがメディアで強調されてしまい、最後の救済の可能性についてみんな読んでくれなかった」という内容の釈明をたびたび行っている(参考リンク)。しかし実際に『大予言』初巻を読んでみても、救済の可能性についてはほとんど強調されておらず、ただ絶望的な滅亡の描写が腹に残るのみである。

 田窪氏は「五島氏の意図するところではなかったにせよ、氏の書籍が宗教的救済論を含まない一種独特の終末論を日本に根付かせる要因であったことは否めない」と指摘する(田窪前掲論文)。この「宗教的救済論を含まない終末論」の広まりが、後に大きな禍根を生むことになる下地となった可能性はある。

 ただ、五島氏も『大予言』シリーズ内で同じ主張を繰り返していたわけではない。足掛け25年に渡る長期シリーズの中で、氏はその時々の時事ネタや世情を貪欲に取り込みながら執筆しており、全体的な内容にも少しずつ変化が見られる。

『大予言』から6年後に出されたシリーズ2作目『ノストラダムスの大予言Ⅱ』(1979)では、終末のシナリオがより詳細に描写されている。82年、惑星直列により異常気象や大規模災害が発生。86年、ハレー彗星の到来とともに第五次中東紛争が勃発、そのまま第三次大戦になだれ込む。そして96年、太陽系の惑星の並びが十字を描くという「グランド・クロス」に至り、地球の地軸が移動するポール・シフトが起こり世界は壊滅的な被害を受ける、と言う。

 本作で重要な点は、滅亡を回避できる可能性のある「別のもの」について、前作より詳しく言及されている点である。

月の支配の二十年間は過ぎ去る

七千年には、別のものがその王国をきずくだろう

太陽はそのとき日々の運行をやめ

そこでわたしの予言もすべて終わりになるのだ

 この詩について、本書では世界を統べる「別のもの」が現れれば、ノストラダムスの予言は無効となるのではないか、という見通しが語られており、本書以降のシリーズでは結末部にて「別のもの」の正体を追及することが一つのパターンとなる。

 なお1999年の「恐怖の大王」について、五島氏は公害や核兵器など本によって異なる解釈を披露しているが、「別のもの」の解釈についてはほぼ一貫している。すなわち、西洋文明とは別の東洋から出てきた仏教などの思想や生き方がそれだと言うのである。『大予言』シリーズは現代文明批判書として受容されてきたわけだが、内実としては読者の「西洋コンプレックス」を巧みに煽り立てている面がかなり大きい。

 この傾向はシリーズを追うごとに強まり、『ノストラダムスの大予言Ⅲ』(1981)では現代人の人間性の腐敗や性的倒錯が、かつての古代ローマ帝国のような文明の滅亡を引き起こすことに繋がる、と説く。性的倒錯の象徴が「ホモ・レズの広まり」とされているところに時代を感じるが、本書でオカルト的に重要な点は、ユダヤ陰謀論を導入したことにある。

 著者によると、古代ローマによって迫害されたユダヤ人たちは呪いによってローマを滅ぼし、今もなお自らを迫害してきた西欧文明を滅ぼすため、第三次大戦を引き起こすための工作を行っているのだという。そしてノストラダムスもまたユダヤ系であり、彼の予言も世界を滅亡へと陥らせるための計画の一つなのだと主張する。

 実際のところ、ノストラダムス自身はカトリックであり、ユダヤ教徒であったという証拠はない。しかし後のシリーズでは「ノストラダムスユダヤ」というイメージを前提として論が進んでいくことになり、「西洋文明」「白人文明」の象徴として「ユダヤ人」という単語が使用されるようになる。また本書は、80年代半ばに流行するユダヤ陰謀論の火付け役となったのではないかという指摘もある(山本弘『トンデモ ノストラダムス本の世界』)。

『大予言Ⅲ』以降、シリーズの陰謀論的な色合いは顕著になる。一年後に早くも出版された『ノストラダムスの大予言Ⅳ』(1982)は、同時期にフランスでベストセラーとなり日本でも紹介されたジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ『新釈ノストラダムス』(1980、邦訳1982)を彼の主張を著しく曲解までして徹底的に攻撃する内容である。

 五島氏によると、フォンブリュヌは「日本人が西欧を滅ぼす〝恐怖の大王〟である」と暗に主張しているのだと言い、西洋人の持つアジア人含む有色人種への蔑視に対し怒りを表明している。そして世界滅亡を秘密裏に進める組織として、フリーメーソンを名指しするのである。五島氏は「白人至上主義」を激しく非難しているが、実際のところそれは氏の持つ西洋への憎悪を裏返したものではないか、と勘繰りたくなる。

 筆者の私見では、滅亡回避のための「希望」が明確に強調されるようになるのは『ノストラダムスの大予言Ⅴ』(1986)以降という印象である。それによると、1999年までに世界は壊滅的な打撃を受けるものの、完全な滅亡とはならず、日本は苦境の末に生き残る国となる。しかしこのままでは、世界はユダヤを中心とした白人主導の文明による支配を受けることになる。それを防ぐのが、西洋文明ではない東洋由来の思想や生き方である、と説くのである。

 個人的な感想としては、シリーズ中ではこの『大予言Ⅴ』が読んでいて一番楽しい。フランスの「ルシフェロン」なる秘密結社に五島氏が接触し、散逸したノストラダムスの予言詩が載っているという秘蔵の本を粘り強い交渉の末に譲り渡される、というはったりの効いた序盤のストーリーもそうだが、上記の「滅亡の予言→西洋文明批判→東洋思想の称賛」というパターンが分かりやすく展開されているという点でもお勧めである。

 ともあれ1999年という約束の時が近づくにつれ、シリーズも滅亡後の救済について強調するようになっていった。しかし初作の『ノストラダムスの大予言』の衝撃はやはり凄まじく、「1999年7月、人類滅亡」というイメージは既に五島氏の手を離れて独り歩きしていた。

 その予言がどの程度信じられたのかは、人によって様々だと言うしかない。全面的に真に受けて将来に絶望するものがいれば、全く信じずに変わらず日々を過ごすものもいただろうし、そもそも最初から関心の無いものだっていただろう。しかし特に感受性の強い若年層には、その後の人生観に暗い影を落としたものも多い。

 そして世紀末に起きたとある凄惨な事件について、『ノストラダムスの大予言』はその元凶として糾弾されることになる。言うまでもなく、1995年の地下鉄サリン事件だ。

 

― オウムとノストラダムス

 オウム真理教は、超能力や超古代史など様々なオカルト言説を寄せ集めて形作られた宗教教団だとよく言われている。その中にノストラダムスの予言が含まれていた。彼らはフランス現地で予言集の16・17世紀のコピーを収集し、1991年には教祖の麻原彰晃が『ノストラダムス秘密の大予言』という書籍を出版するなど、ノストラダムスが教団内で一定の比重を占めていたことは確かだ。

 表向きには仏教としての体裁をとっていたオウム真理教だが、一方で「ハルマゲドン」というキリスト教的な終末戦争の観念を教義に取り込んでいた。このことについて、五島氏の『ノストラダムスの大予言』がオウムの教義形成に影響を与えたとする指摘もある(宮崎哲弥「すべては『ノストラダムスの大予言』から始まった」)。

 実際にサリン事件直後の新聞記事や、信者・元信者に対して行われたインタビューを読んでみると、信者の精神面に影響をもたらした本として『大予言』が挙げられている例が少なからず見られる。例えば村上春樹氏によるインタビュー集『約束された場所で』(1998)には、ノストラダムスについて以下のように答える人々が登場する。

僕は今三十六歳(インタビュー時)ですが、この世代というのはノストラダムスの影響がものすごく強いんです。たとえば僕なんか、ノストラダムスの大予言にあわせて人生のスケジュールを組んでいます。僕には自殺願望があるんです。僕は死にたいんです。今すぐ死んでしまいたい。でもあと二年で終末が来るんだから、それまではなんとか我慢しよう、そう思っています。(男性元信者・1960年生まれ)

ちょうどその頃に『ノストラダムスの大予言』が流行りました。一九九九年には人類は滅びてしまうんだというやつですね。それは僕にとっては非常に心地よく聞こえました。結局のところ、僕が世界そのものを憎んでいたからだろうと思います。(男性元信者・1965年生まれ)

 一部の人々にとっては、「宗教的救済論を含まない終末論」自体が一種の究極的な「救済」だったと言える。

『大予言』の引き起こした影響をもって、山本弘氏は「五島氏が『大予言』シリーズを書かなかったら、地下鉄サリン事件は起きなかったに違いない」と断言する(山本前掲書)。

 しかし山本氏も直後にフォローしてはいるが、五島氏のみに責任を被せることが妥当かは難しいところだろう。『大予言』シリーズは飛ぶように売れたが、当時の若年層は五島氏の著作そのものより、テレビや雑誌などのマスメディアによって間接的に「恐怖の大王」を知ったものが多かったのではないか。

 大島丈志氏は『大予言』初巻発売直後の子供向け雑誌で、ノストラダムスの予言がいかに紹介されているのかを分析し、当時の少年誌・学習雑誌が「『ノストラダムスの大予言』の救いの可能性には全く着目せず、恐怖をさらに増幅する装置としてはたらいていた」と指摘している(大島丈志「「ノストラダムス」の子どもたち」)。責任というのであれば、終末論を無責任に拡散した当時のマスメディアにも責任の一端はあるはずだ。

 また前述のインタビュー集を読んでいると、「私のまわりではノストラダムスの予言について真剣に考えている人間なんていません。ああいうレベルのことでは、誰も納得なんかしません」(男性信者・1965年生まれ)と語る人もおり、教団内でもノストラダムスへの関心には温度差があったらしい。全体を通して読む限り、オウムの原動力は精神世界への希求が主であり、あくまで『大予言』はその一部だったのではないか、という印象を受ける。

 五島氏が本を書かなければ、本当に地下鉄サリン事件は起こらなかったのかどうか、考えても意味はない。とは言え、言い出しっぺかつその莫大な売り上げにより『大予言』シリーズがやり玉に挙げられるのは仕方のないことでもあろう。

 

― 滅亡の日、虚ろな盛り上がり ―

 事件の4年後、五島氏はシリーズ最終作となる『ノストラダムスの大予言 最終回答編』(1998)を上梓する。内容としては、五島氏が『大予言』シリーズを出したことでいかに世間から謂れのない攻撃を浴びたか、という自己弁護から始まる。サリン事件については特に言及がない。

 第2章からは、五島氏が奥さんと共にフランスへ経ち、ノストラダムスの墓の前で彼の「真意」を伝える人々へ取材に行くというストーリーが展開される。後年の奥さんの証言によると、87年頃に夫婦旅行でフランスに行き、ノストラダムスの墓参りに訪れたのは事実らしく(『週刊文春』2020年7月30日号)、本書はその経験をもとに大幅な脚色を加えて書かれたものかもしれない。

 そこで明かされる「恐怖の大王」の正体とは、イエス・キリストの再臨のことだとされる。この解釈自体は決して目新しいものではなく、山本氏などは「さすがにオウム事件に配慮して、おとなしめの解釈でお茶を濁したか?」などと揶揄している(山本弘『トンデモ大予言の後始末』)。その後はいつもの通り、人類が生き方を改めないと遠からず破滅するよ、というパターンが展開されるが、それまでのシリーズで散々追及されてきた「別のもの」については正体が明言されずに終わった。

 さて『最終回答編』が世に出た98-99年の世紀末は、実はノストラダムス関連の書籍が大氾濫した時期でもあった。サリン事件以降、予言解釈本は減退傾向にあったのにここで出版ブームを迎えたのは、時期的に出版社が好機と捉えたほか、初巻『大予言』に影響を受けた世代が書籍の企画を行う立場になっていたことも理由の一つかもしれない(井上順孝『若者と現代宗教』)。

 しかし出版社の盛り上りとは裏腹に、売り上げ的には不発に終わったらしい。99年7月1日の『朝日新聞』の記事によれば、大手書店は「ノストラダムス関係の本は精神世界のコーナーの一部に置くだけ」で、多少売れている程度だったと報じている。つまりこの頃には到底、世はノストラダムスブー ムとは言い難い状況であったが、先に紹介したノストラダムスの本格的な研究書が現れ始めたのもこの時期であったというのは皮肉な話である。

  勘違いされがちだが、ノストラダムス予言詩のトンデモ解釈が蔓延ったのは日本だけではない。ノストラダムスがオカルト界隈のおもちゃにされているのは世界的な現象である。しかし70年代から世紀末に至るまで、散々オカルト的な消費をされてからその後一気に沈静化し、健全な学術研究がなかなか進まなかったのは日本特有の展開だった(山津寿丸「日本のノストラダムスブームを振り返る」)。

 そしていよいよやってきた1999年7月。月末、広島県瀬戸田町にて、日付が変われば無事を喜び合うイベントが開かれるという悪ノリもありつつ(『読売新聞』1999年7月31日)、特に大きな事件もなく滅亡の時は過ぎ去った。

 

― 滅亡のその後で ―

 1999年の國學院大學の学生宗教意識調査には「ノストラダムスの終末予言についてどう思いますか」という質問が立項されており、それに対し「信じる」と答えたものが3%、「あり得ると思う」が16%と、99年の時点でも合わせて約2割の学生が信じていたと解釈できる。しかし2000年の調査では、「信じる」2%、「あり得ると思う」9.3%と、流石に1割弱にまで減少している(参考リンク)。

 21世紀以降、日本においてノストラダムスは「時代遅れ」なオカルトトピックとなった。入れ代わるように、「スピリチュアル」という現状肯定的な宗教ムーブメントが2000年代に流行するのは示唆的と思えるが、それはまた別の話である。

 結局、1999年に恐怖の大王が降りてくることはなかった。しかし『大予言』シリーズで散々煽られた環境問題や国際紛争が解決したわけではない。根本的な解決に至る前にまた新たな問題が立ち上がる、結局はその繰り返しである。明確な終末が訪れることなく変わらない日常が続くことの方が、人によっては何より絶望的だったかもしれない。

 五島氏は後になって、「恐怖の大王とは2001年に起きた9.11テロのことだった」という趣旨の釈明を繰り返すようになった。氏によれば2年2ヵ月のずれは「誤差」ということらしいが、それについてはもういいだろう。

 五島氏以外でも、現在の社会問題をノストラダムス予言詩と結びつける手合いは存在する。最新のトピックとしては、今猛威を奮っているコロナ禍をノストラダムスが予言していた、という話も出ている(参考リンク)。さほど話題にはならなかったものの、ある意味ノストラダムスはオカルト界隈にとって「壊れないおもちゃ」として定着してしまった感がある。

「終末論は、社会不安が増大する時期に流行する」という説がある。しかし人間が社会活動を営む限り、社会不安のない時代など存在しないだろう。ノストラダムス解釈が時代遅れになっても、また新たな終末のおもちゃが見出されるだけである。

 終末へのカウントダウンは、これからも途切れることはない。

 

《参考文献》※『大予言』シリーズは除く

*1:なお人権軽視的な描写が問題視され、日本では現在まで一切正規でのソフト化がなされていない「封印作品」となっており、色んな意味で伝説的な映画である。海賊版はいくつか出回っているが当然違法、筆者も未見。海外では英語吹き替え版が正式に販売されていたそうなので、今でも視聴は不可能ではないようだが…

*2:50億年後に地球は膨張した太陽に飲み込まれることが科学的に予測されているが、別にそれで人生に絶望する人はいないのと同じである。