河原に落ちていた日記帳

趣味や日々の暮らしについて、淡々と綴っていくだけのブログです。

【オカルト本を読む】(前編)ジョージ・アダムスキー『空飛ぶ円盤実見記』

 一つ、こんなお題を出されたとする。

「UFOの絵を描いてみて下さい」

 さて、どんなUFOのイラストが集まるだろうか。

 言うまでもないだろうが、UFOとは「Unidentified Flying Object」(未確認飛行物体)の略である。要するに「空を飛んでるよく分からんやつ」以上の意味はなく、特定の形を描く必要はない。

 ところが多くの人は多分、つばの広い帽子のような、または灰皿を逆さにしたような形のUFOを描くのではないだろうか。いわゆる「グレイ型」の宇宙人をついでに描く人もいるかもしれない。

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こちらはいらすとやのUFO。かわいいシンプルなUFO(宇宙船)のイラストです。

 こうした典型的なUFOの形状は、ジョージ・アダムスキー[1891-1965]という人物が初めて目撃したとされており、その名をとって「アダムスキー型」と呼称されている。このことはテレビのオカルト番組でも解説されることが多く、オカルトに特に関心はないが何となく知っているという人もいると思う。

 ただ、その「目撃者」たるジョージ・アダムスキーその人自身については、あまり触れられる機会がない。

 一言でアダムスキーを紹介すれば、「世界で初めて宇宙人と会った男」である。1952年11月20日アダムスキーはカリフォルニアの砂漠で金星人と会見し、地球外の惑星における平和で豊かな文明のことや、地球に迫りつつある危機について教授された……と、彼自身は主張している。

 彼は1953年刊行の『Flying Saucers Have Landed』という著作によって、その名を世間に知らしめた。地球外の知的生命体との会見という「体験談」は、驚きと感動、そして嘲笑をもって迎えられ、日本でも翌年に『空飛ぶ円盤実見記』(高橋豊訳、高文社)という題で翻訳され話題となった。

 こうした、地球人に対し友好的な宇宙人と出会ったと称する人々を、UFO界隈では「コンタクティ」と呼んでいる。宇宙人とコンタクトできると称する人はけっこういるが、アダムスキーはその始祖的な存在である。そして彼が宇宙人の好意で撮らせてもらった円盤の写真が、世に言う「アダムスキー型」という一つのパターンとなって広まったのである。(ついでに言うと、この円盤に乗ってやってきた宇宙人はグレイ型ではない)

 だが残念ながら、彼の体験談を裏付けるはずのその写真については、かなり早い段階から模型を使用したトリックの可能性が指摘されており、当然体験談そのものにも厳しい疑義がぶつけられた。

 現在、UFOを「宇宙人の乗り物」として研究している人であっても、アダムスキーの証言を丸ごと信じている人はほとんどいないという。そのことをもって彼の体験談を嘘やトンデモと片付けることは簡単だが、かつてその存在がUFO学界に(良くも悪くも)新風をもたらし、白眼視されつつも多くの信奉者を抱えるようにまでなったのは事実だ。

 UFOや宇宙人というもののイメージに多大な影響を与えた男の、元々の「体験」はどのようなものだったのだろう。今一度、彼の著作を紐解き、宇宙人の声に耳を傾けてみよう(1957年刊行のベストセラー双書版を底本とした)。

 -要約-

 本稿の題名では省略したが、本書『空飛ぶ円盤実見記』はアダムスキーの単著ではなく、デスモンド・レスリー[1921-2001]というイギリスの音楽家との共著という形で世に出されたものだった。レスリーは第1部「空飛ぶ円盤は着陸した」を執筆しており、アダムスキーの体験談は第2部「私は宇宙人に会った」に割り当てられている。

 後にアダムスキー自身も語っていることだが、元々原著の『Flying Saucers Have Landed』はレスリーの単著として書かれる予定だったらしい。ところが原稿を書き終えると同時にアダムスキーの宇宙人会見記がレスリーのもとに送られ、その内容に驚嘆したレスリーが急遽自分の本の末尾にそのレポートを付け足し、2人の共著として刊行されたのだという。

 つまり、本書は元々レスリー著述の第1部がメインであり、アダムスキーのレポートは文量では全体の3分の1にも満たない。しかし時が経つにつれ、元は付け足しだったレポートの方が遥か有名になった結果、レスリーの書いた内容は半ば忘れられてしまっている。

 実際に読んでみると、レスリーの文章は面白いというよりは非常にお堅いものである。大量のUFO目撃談を淡々かつ次々と提示し、圧倒的な物量でもって「空飛ぶ円盤は実在する」と読者を納得させるパワースタイルだ。

 その後は空飛ぶ円盤を成り立たせる超科学技術の考察などが続くが、言ってしまえば読んでいてけっこう地味な内容である。そのため読者の印象に残らなかったのか、現在では第1部について言及されることがほぼなく、当時レスリーの文章がどう受け止められていたのかよく分からない。ただ、アダムスキーの劇的な体験談の前にこうした「堅実」な論考を持ってくることで、彼の体験談にリアリティを付加した部分はあるかもしれない。

 また第1部で注目すべきなのは、空飛ぶ円盤は遥か古代から存在していたのだという、いわゆる「宇宙考古学」または「古代宇宙飛行士仮説」と呼ばれる主張がなされている点である。

 レスリーアトランティス大陸ムー大陸の「伝説」や、インドの叙事詩ラーマーヤナ』など世界中の古代神話の記述を引きながら、空飛ぶ円盤を可能とした超古代文明の実在を説いている。そして科学技術の暴走により古代文明は瓦解し、少数の選ばれた古代人は地球上を去り宇宙に脱出したという、どこかで聞いたような話のパターンが出てくるのである。

「宇宙人は遥か古代から地球に来ていた」という宇宙考古学的な言説は、日本ではエーリッヒ・フォン・デニケン氏[1935-]による一連の著作によって70年代以降ポピュラーになったが、50年代の時点で既にこうした言説が唱えられていたことは押さえておくべきであろう。そしてこの宇宙考古学的考察が、後のアダムスキーの体験談にも関わってくるので少し覚えておきたい。

 さて、いよいよ第2部、アダムスキーの登場だ。アダムスキー自身の語るところでは、彼はカリフォルニア州パロマー山の麓に居を構え、望遠鏡での空飛ぶ円盤の観測をライフワークとしていた。1946年10月9日、パロマー山の尾根の上に円盤が飛んでいるのを見たのがきっかけとなり、宇宙人の実在を確信したのだという。

 それから彼は休みなく空飛ぶ円盤観測を行い、写真の撮影を試み、それを新聞社に情報提供として送付したりする日常を送りながら、円盤の搭乗員と会話できる日を夢見ていた。

 そしていよいよ、その日がやってきたのである。1952年11月20日、カリフォルニアのモハーヴェ砂漠にて、彼は人類で初めて一人の宇宙人と遭遇したのだ。

 ことの始まりはその数ヶ月前、アダムスキーアリゾナ州在住のベリーズ夫妻というUFO愛好家の訪問を受けた。彼らは円盤の着陸する場面を見るために砂漠地帯を度々ドライブしていることや、ジョージ・ハント・ウィリアムソン博士なる人物も空飛ぶ円盤に関心を持っているということを話し、アダムスキーが砂漠地帯で調査する際に同行する約束を取り付ける。

 彼は約束通りベリーズ夫妻とウィリアムソン夫妻を誘い、11月20日未明に砂漠地帯へと繰り出す。彼自身は同行者として、秘書のルーシーと友人のアリスという2人の女性を車に同乗させて調査に乗り出しており、計7人での円盤調査行ということになる。

 そして午前8時、予定地に到着。食事や観測場所の選定などで時間を潰し、午前11時頃から彼らは小さな岩山の上で円盤を観測することにした。ベリーズ、ウィリアムソン両夫妻がカメラの試し撮りなどを行いながら約1時間経過した頃、ついに山の麓に何かが飛んでいるのを彼らは発見した。

 そこから、大きな葉巻状の銀色をした飛行船が、音も無くすうっと上昇しつつあったのである。その飛行船には、翼も他の付属物もなかった。そして、ゆっくり風に流されてでもいるように私達の方に飛んで来たが、すぐ停止して、空中にふんわりと滞空し始めたのである。
 ウィリアムスン博士は興奮して叫んだ。

「宇宙船だ!」

(『空飛ぶ円盤実見記』p203)

 念願の空飛ぶ円盤が、目前に現れたというのである。

 彼らは色めきたち、望遠鏡やカメラを手に円盤を観察し始めたが、そのときアダムスキーにとある考えが浮かんだ。ここで大人数で待っていても、円盤の搭乗員は警戒して着陸してくれないかもしれない。そこで彼はルーシーとアリスの2人だけを連れて車を走らせると、円盤も車についてやってくる。なんとか荒野の真ん中に車を停めて見上げると、円盤は彼らの真上を飛んでいた。

 ルーシーとアリスは写真を撮ろうと試みるが強風で上手くいかず、アダムスキーは焦燥して2人に元の場所へ戻るよう指示する。あわよくば空飛ぶ円盤に乗って宇宙旅行に出発する様子を、遠くから観察してほしいからだという。1時間ほど経てば車で迎えに来るよう頼み、彼は荒野に一人残った。

 すると円盤は車と反対方向に飛び去ってしまい、それを空軍の飛行機が追跡していく様子が見えた。しばらくして飛行機が虚しく戻ってくるのを眺めて、彼は円盤が既に母星に帰ってしまったのではないかと失望するが、そのとき遠くから一人の男が彼に向かって近づいてくる姿を見る。奇妙に思いながら彼も歩いていくと、2人の距離が近づくにつれ、その思いは一つの確信へと変わっていった。

 その時、私は今までに見たこともないほど美しい相手の姿に、固唾を呑んで眼を見はった。彼はいかにも親愛に満ちた嬉しそうな微笑を私に投げかけていた。
 そして、次の瞬間、私は愕然として頬の硬張るのを覚えた。私の眼の前にいる相手は、宇宙から来た人間なのだという確信が、突然私の胸を一杯にしてしまったからである。ああ、他の世界から来た人間!!

(『空飛ぶ円盤実見記』p212)

 ついに宇宙人と直接出会えたアダムスキーだが、ここから本文ではしばらく、目の前の宇宙人の外見、そしてその比類なき美しさについて長々と描写される。端折ってまとめると、宇宙人の身長は5フィート6インチ(約170㎝)、年齢は27~28歳頃の青年と見え、肌色はやや日焼けしたような小麦色、砂のような淡い銀黄色のウェーブがかった長髪をしていた。服装は焦げ茶に近い色彩の、上はブラウスに下はスキーズボンに似た服を着ていたという。

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同行者のアリスによる金星人のスケッチ(『第2惑星からの地球訪問者』より)

 神々しさすら放つ宇宙人を前にしてしばらく気圧されていたアダムスキーだったが、思い切って宇宙人に、どこから来たのか、と訊ねた。しかし言葉が通じないらしく、宇宙人は首を振るだけである。そこで彼は頭の中で図像をイメージして、身振り手振りも加えて意思の疎通を試みると、これが成功した。詳細は省くが、彼の問いに対して宇宙人は「金星」と答えた。

 次にアダムスキーが、なぜ地球に来たのかと問うたところ、金星人は「地球から発生している放射線を調査するため」と答えた。

 私は、それは放射線雲を伴った原子爆弾の爆発に関係があるのではないかという質問を試みた。
 彼は私の質問が分ったらしく、はっきりうなずいて見せた。
 私はそんな爆発は危険ではないかと尋ねた。少しうがちすぎた質問ではあったが、心の中であの悲惨な日本の原子爆弾の報道を心に描きながら、そう聞かずにはおれなかった。
 これに対して彼は明確に肯定した。しかし彼の顔には、憤りや当惑の影は見られなかった。むしろ、すべてを理解し、寛大な憐みさえたたえて見えた。それは愛する子供に向って、その無智と無理解をさとす親の態度に似ていた。そして、この感情は、やはり同じ問題に関する次のような私の質問に答える間にも、まだ残っていた。
 私は、それが宇宙の天体に影響しているかどうかを聞いたのである。
 彼は、うなずいた。

(中略)

 彼は、両手で爆発による雲の形を描いて見せ、二、三度「ボーン・ボーン」と爆発の音をまねた。それから、私の肩を叩き、傍らに生えている雑草に触れ、更に、そのあたり一面を指さしてから、また同じ様に、爆発の音を真似して、その爆発のために、皆破壊されてしまうという事を示した。

(『空飛ぶ円盤実見記』p217-218

 こうしたテレパシーによる会話が、多少の困難を伴いつつも重ねられていく。いくつか掻い摘んで紹介すると、「神を信じるか」という質問に対しては、「宇宙には宇宙の創造神があり、それが創った法則があり、その法則を守って生きなければならないのだ」と言っているようだと、アダムスキーは解釈した。また金星以外にも人間は存在するのかという質問には、数多くの星々に人間は住んでおり、しかもそのいずれもが地球に訪れているということだった。

 次いでアダムスキーは、金星人の写真を撮らせてもらうよう頼んだが、これは何故か拒否されてしまう。しかしその代わりにということだろうか、金星人は靴の足跡を地面につけ、それを指さした。足跡には何か不思議な文様があった。

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足跡のスケッチ(『第2惑星からの地球訪問者』より)

 そして金星人は、近くに待機していた円盤にアダムスキーを案内する。円盤は半透明のガラスのような質感で、若干空中に浮かんだまま静止していた。更に観察しようと近寄る彼を金星人が引き留めたが、そのとき惰性で当たってしまった腕に痺れるような感じを受け、しばらく感覚がマヒしてしまった(マヒは数週間続いたという)。そのとき彼は咄嗟にポケットからカメラのフィルムを出したが、金星人の求めに応じてそのフィルムを差し出した。

 アダムスキーは円盤に乗せてくれないかと頼んだが、金星人は今は応じることができないと断った。彼はがっかりしながらも次の機会が訪れる日を心待ちにし、円盤に乗って去る金星人を見送った。

 その後当初の約束通り、他のメンバーに車で迎えに来てもらったところ、彼らも円盤の様子などは遠くから確認しており、興奮冷めやらぬ調子になっていた。数々の質問が飛び交いながらも、現場に残された金星人の足跡のスケッチや、石膏での型取りが行われた(石膏はウィリアムソン博士が「人類学者だから」という理由で持ってきていたらしい)。

 この類まれな体験の後アダムスキーは、メディアからの取材を受けつつ宇宙人の再びの来訪を心待ちにする日々を送っていたが、約一ヵ月後にその機会が巡ってきた。1952年12月13日の朝、空中に閃光が現れたので望遠鏡を向けたところ、明らかにあの空飛ぶ円盤が目に映ったのである。2回目のコンタクトだ。

 円盤は十分に見える位置でしばらく滞空していたため、彼は急いで写真の撮影に取り掛かった。そして撮影されたものが、有名な「アダムスキー型UFO」の記念すべき原型となったのである。円盤は更に彼の方に近寄ると、何かを彼に向けて落としていった。見ると先日の会見で金星人に渡した、カメラのフィルムであった。

 後日、フィルムを現像してみると、そこには何かの画像ではなく、奇妙な記号で書かれた文章のようなものが写っていた。その内容については未だ解読はできていないという。

 これが『空飛ぶ円盤実見記』時点における、アダムスキーの体験全てである。彼はこの体験談について、全てでっち上げの嘘だということを疑われることも無理はないが、空飛ぶ円盤が実在し、地球にやって来ていることの意味を真剣に考えるべきだと主張する。そして再び宇宙の同胞と出会い、今度はその宇宙船にきっと乗せてもらうという希望を語りつつ、最後は訓話めいた語りで本書は幕を下ろす。

 もし、私達地球人が、各国間で互に闘争を続け、そのために破壊的な武器の製作に狂奔する一方、宇宙間の朋友に対してはあらゆる不信と冷淡と悔蔑(ママ)とを繰返しているならば、彼等はそれに対して或る強力な手段を取るようになるかもしれない。……彼等は私達の武器のようなものを使用しない。恐らく、地球人には未知な宇宙力によるであろう。私が実際にその片鱗に触れて、数週間影響を受けたあの驚くべき力に対して私達地球人は一体どんな防禦法を持っているというのか。
 私が、この書を書いた目的と欲求は、結局、根本的には次のような心情に基づいているのである。
 ――私達はあくまでも他の世界の人間達を認め、そして彼等を快く迎えなければならない。彼等は、実際に私達の身近に来ている。そして私達は彼等から多くのものを学ぶであろう――。

(『空飛ぶ円盤実見記』p246-247)

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1952年12月13日に撮影したという円盤(『第2惑星からの地球訪問者』より)

 

円盤と冷たい戦いと

 なかなか途方もない話だが、彼の話には明らかに核戦争への恐怖が底に流れているということが何となく読み取れる。地球人に友好的な宇宙人「スペース・ブラザーズ」たちの物語を読み解くためには、そもそもUFOというものが歴史的にどういった文脈で語られるようになったのかを押さえておく必要がある。UFOの歴史については、先学による客観的な研究成果を存分に参照したい(カーティス・ピーブルズ『人類はなぜUFOと遭遇するのか』、ASIOS『UFO事件クロニクル』など)。

 よく知られるように、UFO事件の第一弾として知られるのは、1947年に起こった「ケネス・アーノルド事件」である。実業家のケネス・アーノルドが飛行機を操縦中、謎の飛行物体を目撃したという事件だが、この物体の形容としてメディアで用いられた「空飛ぶ受け皿(Flying Saucer)」という言葉が、そのまま謎の飛行物体を指す「空飛ぶ円盤」という用語として定着した(なお「UFO」の語の定着はもう少し後のことだが、本稿では謎の飛行物体全般をUFOと呼称し、「空飛ぶ円盤」は宇宙人の乗り物という意味合いで使用することにする)。事件の起こった6月24日は、現在「UFOの日」として記念日になっている。

 とは言え、人類はこの時初めて「UFO」を目撃したのではない。言ってしまえば正体の分からない飛行物など有史以前から目撃はされていただろうが、それが社会的な話題となり出したのが第二次世界大戦末期という時代だった。

 空に何か分からないものが飛んでいる。空中に謎の閃光を見た。そうした目撃例は当初、「フー・ファイター」や「ゴーストロケット」など、様々な名で呼ばれていた。

 しかしこれらが宇宙人の乗り物と言われていたかというと、そうではない。そういった説も無くはなかったが、大戦の最中では空の不審物に宇宙人を夢見るよりも、「敵国の新兵器」と捉えるのが一番合理的な解釈だった。

 終戦後も世界情勢は安定とは程遠く、東側陣営と西側陣営が睨み合いを続ける冷戦体制が構築された。そんな不穏な空気の中でケネス・アーノルド事件は起こり、これ以降謎の飛行物体が全米で跳梁跋扈するようになるのである。

 飛行物の正体が何であれ、よく分からないものが国土の上を飛んでいるというのは、国防上大いに問題がある。それこそ、ソ連の新兵器が正体の可能性もあり得るのだ。そこでアメリカ空軍は1948年1月に「プロジェクト・サイン」という調査グループを発足させ、公式にUFO調査に乗り出した。

 そういったわけで、「米軍がUFOを調査していた」というのは単なる都市伝説ではなく、れっきとした事実である。しかし、別に宇宙人と交流しようとか死体を隠そうとかいったわけではなく、単純に国防上の必要に駆られてのことであった。ちなみに「UFO」という用語自体も、軍の調査において謎の飛行物を指す言葉として公式に採用されたものである。*1

 ところが調べを進めていくにつれ、既知の物理法則上どう考えてもあり得ない動きをする物体の目撃例が目立ち、調査グループは頭を悩ませた。そこで物理上の問題を解決する糸口として、とある考えに傾く者が出てくる。これは地球由来のものではなく、地球外の未知の技術によって作られたものである、と。

 傍から見ればある種の思考停止のように思えてしまうが、調査の初期段階ではUFOを「実在する何か」だという前提で調査が行われており、単なる見間違えや悪戯といった可能性は度外視されていた。そのため物理的に説明のつかない現象を「未知の世界からやって来たもの」と解釈することは、当時としては軍内部でも説得力を持ったのである。

 プロジェクト内部では、UFO=地球外起源説を採る派閥と、そうとは信じない懐疑的な派閥とで内部分裂が生じていたが、いっときは地球外起源説の方が優勢な見解となり、とあるUFO事件の報告書の結論として採用されるまでに至った。このように一時期とはいえ公的な調査においても、「UFOは宇宙人の乗り物」という仮説が真剣に議論されていたことは注目していい。

 だが、その報告書が「証拠不十分」として却下されてから、その流れに暗雲が立ち込める。調査を進めれば、UFOの正体が何なのかそのうち検討がつくだろうと思われていたものの、進めれば進めるほど正体が分かるどころか、ただ膨大な量の目撃事例が積み重なっていく状況にプロジェクトは疲弊していく。 そうした現実を前に地球外起源説は後退していき、1949年2月にプロジェクト名が「プロジェクト・グラッジ」に改められてからは、UFOは自然現象などの誤認であると世間に啓蒙していく方向に舵を切った。

 その後は休眠期間や1951年の「プロジェクト・ブルーブック」への再改名などを経ながらも、1969年に解散するまで空軍主体のUFO調査は継続されていた。しかし基本的には、UFOは異常な現象ではないということを国民に広報することが、プロジェクトの主な活動となっていた。

 だがこうした方向転換が、かえって世間に不信感を煽る一因となった感はある。当時プロジェクトが収集したUFO関連の情報は、国民にパニックを与えないよう機密扱いにされていた(現在は情報公開法により機密解除され、調査レポートはインターネットで閲覧可能)。だがその一方で空軍は、「UFOはただの見間違いだ」などと国民に向けて周知するという、一見相反する活動を行っているように思われたのである。

 特に調査の初期の頃は、空軍がUFO目撃例に並々ならぬ関心を持っていることにマスコミはすぐ気付いていた。UFO目撃者にマスコミが取材を行うと、先んじて空軍がその目撃例を調査していることが多々あったのである。そこから「空軍はUFOの真実を国民に隠している」という疑惑に至るのは、至極簡単なことであった。以降、UFO言説は完全に陰謀論と一体となって推移していく。

 ところでUFOを宇宙人の乗り物だとする考えについてだが、空軍の中でもその意見が根強く唱えられる一方、より熱く燃え上がったのは民間の方であった。「政府は既に宇宙人と接触しているが、その事実を隠蔽している」というのが典型的なUFO陰謀論だが、その定着に大きな影響を及ぼしたのが、ドナルド・キーホー[1897-1988]という作家である。

 キーホーは1950年代から、盛んに空飛ぶ円盤の実在を主張する記事を雑誌に寄稿し始めた。それは彼自身による航空関係者への取材をもとに書かれたものだが、キーホーは政府がUFOを巡る真実を隠蔽していると始めから信じきって取材に当たっており、単なるうわさ話やゴシップまでをも「証拠」として扱っているという点で、信憑性には著しく欠ける。だが彼の主張への反響は凄まじく、空軍も報告書を公開するという形で反論を行うといった対応を迫られるほどだった。

 しかしそうした空軍の対応も隠蔽工作の一環として受け止められてしまい、効果はほぼなかったどころか陰謀論を強化する方向に作用した。そうこうする間にも、世間の関心に合わせるかのようにUFO目撃例は膨大に積み重なっていく。極め付けは1952年7月、ワシントン上空に多数のUFOが現れ、空軍がジェット機を出動させる大騒動となった「ワシントンUFO侵略事件」が起き、ブルーブックも手に負えず完全に機能不全に陥るなど、パニックと言うほかない状態になってしまった。

 なぜアメリカでこれほどのUFOパニックが起こったのか、恐らく全てを説明できる明確な答えは出せないだろう。だが一つには国民の持つ政府への不信感や、第三次大戦への恐怖感といったものが関係するのは確かだ。東ではソ連や中国が影響力を増し、東側陣営で水爆の製造が始まっているといった報道がなされ、1950年には朝鮮戦争が勃発、アメリカ軍も多数派遣された。アメリカとソ連の関係はますます険悪になり、軍拡競争は歯止めが利かず、国内では「赤狩り」の風が吹き荒れた。核戦争による世界の崩壊が近づいているという感覚は、今とは比べ物にならないほど身近な不安だったろう。

 そんな社会全体が混沌としていた中で台頭したダークホースが、アダムスキーという存在だった。その登場は、空軍はおろかキーホーら民間のUFO研究家にとっても青天の霹靂であっただろう。

 

コンタクティ・ムーブメント

 1953年、『空飛ぶ円盤実見記』は刊行されると同時に素晴らしい売れ行きを見せ、アメリカで12版を重ねるに止まらず、国外でも50以上の言語に翻訳され、50万部以上を売り上げる世界的なベストセラーとなった。恐らくそれは巻末に付け足された体験レポートによるもので、もし予定通りレスリーの単著として刊行されていれば、ここまで有名な本にはならなかっただろう。

 アダムスキーの体験談では、宇宙人はそもそも何故地球にやって来ているのか、何故大勢の人間が見ている前に現れないのかなど、皆がUFOについて疑問に感じていたことに理由をつけているほか、何よりも「核戦争をやめよう」という平和への呼びかけが人々の共感を呼び寄せた。

 それと同時に、「自分も宇宙人に出会った」と称する人物が多数現れるようになった。コンタクティムーブメントの始まりである。

 1954年、トルーマン・ベサラム[1898-1969]という当時道路補修車の運転士をしていた男が、惑星「クラリオン」から来たアウラ・レインズと名乗る、人間とほぼ変わらない姿の美しい女性宇宙人に出会ったと主張した。彼女はベサラムに、地球の核戦争によって宇宙に混乱が生じるのを心配していることや、クラリオンは核戦争など存在しない平和な星であるということを教えた。

 同じ年、今度はダニエル・フライ[1908-92]というエンジニアの男が、アランと名乗る宇宙人に円盤に乗せられ、職場からニューヨークまで飛行したと語った。アランは、かつてレムリアとアトランティスとの間に起こった戦争と同じことが起こることを懸念しており、地球の国々が互いに理解し合うことが重要だと説いた。

 翌年の1955年、オルフェオ・アルジェリッチ[1912-93]という男は、工場作業の夜勤明けに宇宙人がテレパシーで語りかけていたといい、後にはネプチューンと名乗る宇宙人と物理的な接触を果たしたと語った。宇宙人は、物質的な進歩が生命の進化を妨げているといい、1986年に大惨事が発生し地球は破滅の危機に襲われると予言した。

 このように、コンタクティたちが接触した宇宙人たちはいずれも異なった星からの出自を述べているが、彼らが地球人に伝えている内容自体は大同小異である。平たく言えば、地球には核戦争の危機が迫っており、それを警告するために我々はやって来た、ということだ。それを政府高官のような社会的影響力のある人間ではなく、平凡な中年男性に伝えている辺りに妙な可笑しみがある。

 興味深いのは、彼らが宇宙人とのコンタクトを主張したのはアダムスキーの体験談が知られた後のことだが、コンタクトのあった時期をいずれもアダムスキーのそれより前に設定していることである。アダムスキーは1952年の11月に金星人と会見したが、ベサラムとアルジェリッチは52年の7月、フライは50年の7月にコンタクトしたと述べている。

 またコンタクティの体験記を読んでいると、彼らが出会ったという宇宙人というのが、たいてい金髪碧眼の「美しい」存在であることが気にかかる。この点について、地球人を救うのはそうした金髪碧眼の存在であるという、白人至上主義的な価値観がコンタクティの物語に反映されている可能性が指摘されている(稲生平太郎『定本 何かが空を飛んでいる』)。

 話題を戻そう。争うように宇宙人と接触する人物が現れる中、初代コンタクティのアダムスキーは1955年に『Inside The Space Ships』を著し、更に濃密な宇宙人との交流の模様を伝えて世間を驚かせた。日本でも57年に、『空飛ぶ円盤同乗記』という邦題で翻訳されている(なお本稿では、久保田八郎訳による新アダムスキー全集『第2惑星からの地球訪問者』版を底本とした)。

 前回のコンタクトから数か月後の1953年2月18日、ロサンゼルスのホテルのロビーで宇宙人2人組から話しかけられるという設定で『同乗記』は始まる。2人組の正体は火星人と土星人で、普段は地球人に混ざって生活を営んでいるという。彼らは車で砂漠地帯へと向かい、そこで着陸していた円盤にアダムスキーを案内した。そこには、前回彼が遭遇したあの金星人もいた。

 それから円盤による宇宙旅行の旅が始まり、宇宙人の物質的にも精神的にも優れた文明の様子が長々と描写される。科学技術は地球の何倍も進んでいるし、食べ物は旨いし、女たちは悉く色白で美しい。もはや逆なろう系とも思える描写が、作中の大部分を占めている。

 そんな中で一際目につくのが、宇宙人の話す宗教的な世界観である。円盤内部には〝神〟を描いた肖像があり、彼らはそれを「父」と呼び、「万物の創造主」として信仰しているらしい。そして彼らの中には、精神的な指導者と思しき「マスター」と呼ばれる偉大な存在がいる。「マスター」が語るには、人間は死後に魂の転生を繰り返し、惑星から別の惑星へと生まれ変わるのだという。

 また、アダムスキーの案内役を務めた火星人と土星人は、後にこのような歴史観を教えている。宇宙の星々は常に誕生と崩壊を繰り返しているが、新たに人間の居住可能な惑星が観測されると、宇宙ではすぐさま志願者を募って新惑星へ派遣され、新たなる世界が開拓される。地球も最初はそうした惑星の一つとして開拓されるはずだったが、途中で大気の異常が起き大半の住民は地球を脱出することになった。

 少数の者は残留を希望して地球に住み続けたが、彼らは物質的な欲望に溺れ堕落した。その後、地球では大陸の隆起や沈没を繰り返してから再び居住可能な惑星となったが、今度は宇宙人の中で利己主義に走った罪人を追放する場所として、地球が使われるようになった。そうして地球は醜い欲望や諍いが絡み合う、最も文明程度の低い惑星となってしまった。

 宇宙人たちはこのような状態に陥った地球を救うため、選ばれた者を何度も地球に送り込んでおり、イエス・キリストもその一人だった。だがそうした「救世主」はいつも救おうとした人々の手で殺されてしまい、結局現在まで地球は精神的な発展の望めない惑星のままになっているのだという。

 また宇宙人は、地球の地軸が傾き始めており、近いうちに地上に大変動が訪れるとも予言するが、これは地球人が一つ上の段階に進むきっかけであるとも示唆する。

 こうした真実を教えてもらいつつ、アダムスキーは月の裏側への旅行などを楽しんでいた。月の裏には緑豊かな大自然が広がっており、様々な地域に構えられた住居といった景色も見えた。アダムスキーはそれまで見てきた美しい光景や人々を思い起こしながら、宇宙人との別れを告げた。

 

金星人の足跡を辿って

 一見して分かる通り、『実見記』の時点ではそれほど前面に出されていなかった宗教性が、『同乗記』に至っては非常に強く押し出されている。宇宙人たちが(アダムスキー経由で)地球人に伝えてくる平和と愛のメッセージは、不安定な情勢の中で多数の支持者を獲得した。その一方で、彼の体験談に対し厳しく疑義を問う声も噴出した。

 有名な円盤写真については、模型を使用したトリックだと考えてられていることは先述したが、他にも体験談の中の不審点については色々指摘されている。例えば金星人と出会った証拠として彼らは靴の足跡を石膏で採取しているが、ビッグフットを探しているのならともかくUFO観測に石膏を持ち込むのは不自然ではないか、など。

 またアダムスキーと共に円盤を見ていたはずの同行者が、後に喧嘩別れして体験談自体を否定していたり、そもそも彼自身も自分の言ったことを信じていなかったという疑惑もあるが、そこら辺の事実追及については懐疑派の諸氏により散々指摘し尽くされている(皆神龍太郎『UFO学入門』など)。本稿ではそれよりも、彼の体験談の骨組みとなっているものが何なのかを腑分けしていきたい。

 彼の体験談を読んでまず感じるのは、古臭いSF映画感である。これがどうも実際に、SF作品に影響を受けた部分があるらしい。話のネタ元として有力視されているものに、1951年公開のSF映画地球の静止する日』が挙げられる(『地球静止する日』は2008年のリメイク版)。

 映画の内容をごく簡単に述べると、ワシントンに突如降り立った円盤から「クラトゥ」と名乗る宇宙人が降り立ち、分からず屋な地球人に対して圧倒的な科学力を誇示し、核戦争を止めるよう世界中に忠告するというものである。映画では円盤が大衆の前に降り立っているが、それを除けばアダムスキー含めコンタクティたちの語るメッセージと大枠は一致する。また円盤の外見や宇宙人の服装、そして地球人に混ざって生活する宇宙人など、様々な要素が話のディティールに取り入れられた可能性はある。

 しかし『地球の静止する日』だけが体験談の元ネタだとは言えない。実はアダムスキーは、『実見記』以前に本当にSF小説を書いていた。それが1949年に刊行された『Pioneers of space』(宇宙のパイオニア)という作品である。当時ほとんど話題にならなかったものの、体験談が有名になってから目ざとく掘り出され、『同乗記』と内容が酷似していると指摘された。

 この『宇宙のパイオニア』は、何故か日本では全集などにも一切収録されず、長らく日本語で読める機会がなかった。ところが近年、益子祐司氏により『地球人よ、ひとつになって宇宙へ目を向けなさい!』というちょっぴり謎な邦題でめでたく翻訳がなされ、参照が容易になった。

 話の筋は、パイロットのボブ、副操縦士のジョニー、ナビゲーターのジョージ、科学者のジョンストン博士の4人が宇宙船で月に行き、そこで月人や火星人、後には土星人、木星人、金星人と遭遇し、その地球より遥かに優れた、そして平和な文明の在り方を教授されるというものである。

 読んでみた正直な感想としては、お世辞にも面白い小説とは言えない。主人公サイドの登場人物が無個性すぎて4人もいる意味が全くなく、ストーリーも宇宙文明自慢がひたすら茫洋と繰り返されるだけで、緩急などという言葉からは程遠い。これが売れなかったのも無理はないが、後の『同乗記』との接点を意識しながら読むと興味深いものがある。

 地球外の文明では苦しみも悲しみもなく、格差を生み出す貨幣もない平等な生活を営み、美しい芸術を嗜む毎日を送っている、ついでに食べ物は旨いし女たちは美しい――今にしてみればむしろディストピアとさえ思えてしまうぐらいに素朴なユートピア幻想だが、具体的な「精神的豊かさ」の描写は明らかに『同乗記』と通じている。その他にも、全宇宙の〝創造主〟という神的存在の描写や、「マスター」と呼ばれる精神的指導者、古代の地球の大変動から逃れ出た人間など、その気になればかなりの共通点を見出すことが可能だろう。

 アダムスキーは自身の体験談に、自分で書いた小説の設定をかなり流用していることはほぼ間違いない。だがそうなると、その小説自体にはどういったバックボーンがあるのだろう。それを知るには、彼の経歴をもう少し遡る必要がある。

 アダムスキーの出自は、ポーランド生まれの移民である。軍隊や製造業、ウェイターなど様々な職業を転々とした後、40歳頃からカリフォルニアで宗教的な教えを人々に広め始めた。彼の周りには少しずつ人が集い始め、その集まりは「王立チベット教団」と呼ばれた。つまりアダムスキーは、UFOが話題になる前から宗教指導者的な立場を確立していたのである。彼は『実見記』で「哲学を教えている」と称していたが、教えていたのはギリシア哲学やドイツ哲学ではなく「宇宙哲学」なる教えだった。

 要は、アダムスキー自身が元々持っていた宗教的信念を、空飛ぶ円盤に託して語り直した作品が『実見記』および『同乗記』なのである。では、その大元となった彼の宗教思想とはどういったものなのか……という点に問題が移ってくるが、それを掘り返すためには、複雑怪奇なオカルティズムの世界をかき分けていかなければならない。

 

 想像以上に記事が長大になってしまったので、後編に続きます。

(参考文献は後編に一括して記載)

kawaraniotiteitanikki.hatenablog.com

*1:なおこの用語を、いつ誰が考案したかについてははっきり分かっていないらしい(参考リンク)。