河原に落ちていた日記帳

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【読書備忘録】岡本亮輔『聖地巡礼』(2015)

聖地巡礼 - 世界遺産からアニメの舞台まで (中公新書)

聖地巡礼 - 世界遺産からアニメの舞台まで (中公新書)

 

「聖地」とは何ぞや。

 試しに広辞苑で引いてみると、「神聖な土地。神・仏・聖人などに関係ある土地」とあります。流石に要領を得た説明です。

 しかし近年では、アニメ作品の舞台となった場所を「聖地」と表現することも多くなっており、指し示す対象が必ずしも宗教的なものとは限らなくなっているようです。

 本書はサンティアゴ大聖堂から、青森にあるキリストの墓、そしてアニメの舞台まで様々な「聖地」を取り上げ、そこへ「巡礼」するという行為が現代においてどのように意味づけられているのかを考察した一冊です。

〈内容紹介〉Amazon商品紹介欄より
 非日常的な空間である聖地―。観光地として名高い聖地には、信仰心とは無縁の人々が数多く足を運んでいる。さらに近年では、宗教と直接関係のない場も聖地と呼ばれ、関心を集めている。人は何を求めて、そこへ向かうのか? それは、どのような意味を持つのか? サンティアゴ巡礼や四国遍路、B級観光地、パワースポット、アニメの舞台など、多様な事例から21世紀の新たな宗教観や信仰のあり方が見えてくる。

 

 社会学的には、宗教は近代以降「世俗化」が進み、現代においては宗教が人々の統一的な規範となることはない、という風に言われているようです。

 ではそのように宗教が軒並み衰退しつつある現代においてもなお、なぜ人々は「聖地巡礼」を行うのでしょうか?

 本書の結論的なことを言えば、聖地巡礼は観光という行為と結び付くことによって、伝統的な宗教的・信仰的意味合いとは異なる新たな形での受容がなされているのです。

 宗教の世俗化が進めば宗教が消滅するのかと言えば、そんなことはありません。世俗化により社会的な位置が低下した宗教は、その立ち位置を社会から個人へと移行させました。

 例えば、特定宗教の一教義がスピリチュアルの一環として取り上げられたり、一人の人間が年末年始に3つの宗教を梯子する現象なんかもそうでしょう。こんな風に、宗教の一部が商品のように切り売りされ、個人が宗教を自由自在に組み合わせて実践するのが、現代の宗教のカタチなのです。

 聖地巡礼という実践も、このような宗教の「私事化」という文脈のなかで捉えなければならない、というのが著者の主張です。当然ながらその文脈のなかでは、聖地巡礼は単純な信仰的意味合いとは異なる様相を帯びてきます。

 著者は、人々が聖地巡礼に何を求めているのか。著者は世界中の様々な「聖地巡礼」の事例から、その位置付けを分析していきます。

 例えば、聖地への巡礼そのものよりも、その過程で起きる人々の出会いや触れ合いなど、巡礼のプロセスに大きな意味が見出されている事例。常識的に見れば明らかに偽物であるにも関わらず、それに「本物らしさ(真正性)」が人々に認められることによって「聖地」が生み出されていく事例。既存の聖地の一部に新たな宗教的価値が見出され、パワースポットと称される聖地が創出される事例、などなど。

 聖地巡礼は様々な意味合いでもって、宗教と社会を繋げる一つの懸け橋となっています。しかしどんな意味合いであれ、世俗化した巡礼には神仏との関わりが希薄であることも事実。神なき時代における神なき宗教、と言えるのかもしれません。

 著者は「観光との融合による聖地巡礼の活性化は、伝統宗教との関わりをますます減らしてゆくと考えられる〔p211〕」としながらも、それによって新たな人々の結びつきが形成される可能性など、宗教と社会との関係の変化を捉えることが重要だとします。

 本書は、聖地巡礼という宗教的実践の事例を通じて、現代における宗教と社会の関係性を論じたものです。正直に言いますと、私は第4章で取り上げられる「青森県戸来村のキリストの墓」目当てで本書を手に取ったのですが、オカルト文化に留まらない非常に大きなテーマを持った新書だと思います。

 神社仏閣巡りやパワースポット巡りといった一般的な趣味としてなされる行為は、実は現代の宗教の在り方を端的に示す宗教的実践なのかもしれません。