河原に落ちていた日記帳

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【読書備忘録】伊藤龍平『何かが後をついてくる 妖怪と身体感覚』(2018)

何かが後をついてくる

何かが後をついてくる

 

 学校からの帰り道、夕闇迫る薄暗がりの中、人気のない路地裏を一人で歩いていると、気付くと自分の足音に混じり、ぴた、ぴた、ぴた、ぴた、何かが後をついてくるような気配……

 誰しも身に覚えのあるこの不気味な気配(私は体験したことがありませんが)。実際には誰もいないのに「何かが後からついてくる」ような気配を感じるというような、日常の隙間にふと表れる得体の知れぬ違和感。

 本書はこうした身体感覚上の違和感と、妖怪伝承との関係に注目した、妖怪研究における最新の知見となります。

〈内容紹介〉青弓社公式HPより引用
 後ろに誰かいる気がする、何か音が聞こえる、誰もいないはずなのに気配を感じる……。

 妖怪は水木しげるによって視覚化され、いまではキャラクターとしていろいろなメディアで流通している。他方、夜道で背後に覚える違和感のように、聴覚や触覚、嗅覚などの感覚に作用する妖怪はあまり注目されてこなかった。

 日本や台湾の説話や伝承、口承文芸、「恐い話」をひもとき、耳や鼻、感触、気配などによって立ち現れる原初的で不定形な妖怪を浮き彫りにする。ビジュアル化される前の妖怪から闇への恐怖を思い出すことで、私たちの詩的想像力を取り戻す。

 

 著者の伊藤龍平氏は、「妖怪」というテーマを学術的に取り上げ続けている数少ない研究者の一人。過去に私が読んだ著書としては、『ツチノコ民俗学』(2008)、『現代台湾鬼譚』(2012)、『ネットロア』(2016)が挙げられ、口承文芸学界において先端的な研究を世に問い続けています。

 現在は台湾の大学で教鞭を取られており、論考では台湾における妖怪譚についても数多く取り上げられています。そのため日本と海外との妖怪の比較研究的な言及も多く、図らずも妖怪文化比較研究での第一人とも言えるかもしれません。

 本書の内容は、以下の目次から構成されています。

序   妖怪の詩的想像力

第1章 花子さんの声、ザシキワラシの足音
第2章 文字なき郷の妖怪たち
第3章 「化物問答」の文字妖怪
第4章 口承妖怪ダンジュウロウ
第5章 狐は人を化かしたか
第6章 台湾の妖怪「モシナ」の話
第7章 東アジアの小鬼たち
第8章 「妖怪図鑑」談義
第9章 妖怪が生まれる島

あとがき――天狗に遭った先祖

 本書は伊藤氏が各所で発表した論考を集め、一冊の本として纏めたものです。そこで本書に通底するテーマとして「妖怪と身体感覚」が設定されており、全体の統一が図られていますが、実際には妖怪のビジュアル化の問題や妖怪と国民アイデンティティの問題など、本書で論じられる話題は広範囲に渡ります。

 では本書のテーマに掲げられる「妖怪と身体感覚」の関連とは、どのようなものなのか。それは冒頭で書いたような「何かが後ろをついてくる」ような触覚に作用する違和感や、あるいは誰もいないはずの森の中から誰かの話し声が聞こえる、そういった聴覚に作用する怪異のことなのですが、伊藤氏はそうした身体感覚上の違和感こそが妖怪の原型なのだと主張します。

私は「妖怪」とは、身体感覚の違和感のメタファーだと思っている。その違和感が個人を超えて人々のなかで共有されたとき、「妖怪」として認知される。少なくとも、民間伝承の妖怪たちの多くは、そうして生まれたのだろう。〔p14〕

 伊藤氏はこうした「身体感覚の違和感」を、「妖怪感覚」という言葉で表現しています。

 例えば本書では、「ビシャガツク」という妖怪が事例として挙げられています。それは名前通り、みぞれの降る夜道を歩くと背後から「ビシャ、ビシャ」と足音が聞こえるという怪異のことですが、それだけだとただ背後から怪しい気配を感じたというだけであり、まだ「妖怪」と呼べるまでには至っていません。

 この怪異が「妖怪」として捉えられるようになるのは、「夜道を歩いていると背後に気配を感じる」という〈妖怪感覚〉が一定の範囲で広く共有され、「ビシャがつく」という名付けが行われたとき、初めて「ビシャガツク」という妖怪が生まれるのです。

 しかしこの時点ではまだ、ビシャガツクには明確なビジュアルイメージが伴っていません。あくまで「背後の怪しい気配」を象徴する妖怪なのであり、人々からはっきりとした姿形は与えられていない、むしろ姿形を想定する必要がないのです。*1

 ビシャガツクをビジュアル化したのは、他でもない水木しげるその人でした。水木氏は柳田國男による妖怪の報告を元ネタとして、ビシャガツクにオリジナルの姿形を与え、そして自らの妖怪図鑑で一般に紹介したのです。

 この段階になって、元々素朴な民間伝承としての妖怪であったビシャガツクが、水木氏により「キャラクター化」され、現在のサブカルチャーにおける妖怪文化の一端を担う形に変容していった、と言えましょうか。

 本書では身体感覚の違和感を象徴する形で生まれた「妖怪」の話題は無論のこと、そうした伝承を基に展開していく「妖怪のビジュアル化」という問題についても多く触れられており、現在の妖怪研究の課題を様々な事例から浮き彫りにしてもいます。

 第6章では台湾の事例として「モシナ」が、第7章では韓国の「トケビ」が東アジアの「妖怪」として取り上げられています。これら海外の妖怪伝承は、日本のものと通底する発想で語られたものが多く興味深く思うものですが、それに加えて面白いのが、これらの「妖怪」と国民アイデンティティーの問題についても論じられていることです。

「妖怪」とはあくまで超自然的な存在を表す学問上の分析概念でありつつも、その言葉の中には「伝統的」なイメージが色濃く渦巻いているのは確か*2。韓国や沖縄、台湾などで伝わる「妖怪」が、その国"特有"の伝統的なものだと認識されたとき、妖怪伝承はその国民アイデンティティ―を示すものとして利用されていくことになります。伊藤氏はそうした現代的な妖怪伝承を巡る様相にも、注意を向けるべきだと言います。

 このように本書では、「妖怪と身体感覚」を中心的なテーマとしながらも、現在における妖怪研究の対象などについても幅広く論じられており、妖怪学ファンなら一読の価値ありの研究書となっております。

 と言うか妖怪に興味のある方なら、伊藤龍平氏の主著を一通り読んでしまいましょう。近年の妖怪研究を考える上で、必読の著書ばかりです。

 私も追々、未読の『江戸幻獣博物誌』を読んでいきたく思っています。共に妖怪の織りなす沼へと沈んでしまいませんか。

*1:ここら辺の感覚は、田中康弘氏の『山怪』シリーズが上手く表現できていると思います。

*2:本書では「妖怪」の定義を、小松和彦氏の提唱した「祀られていない超越的存在」として設定されています。しかし例えば、UFOや宇宙人の話を「妖怪伝承」として捉えようとすると、そこはかとない違和感を感じてしまいます。伊藤氏の述べる通り、「伝統と結び付かないモノは「妖怪」と認知されにくい〔p239〕」のです。