河原に落ちていた日記帳

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【読書備忘録】徳田和夫編『東の妖怪・西のモンスター』(2018)

東の妖怪・西のモンスター―想像力の文化比較 (学習院女子大学グローバルスタディーズ)

東の妖怪・西のモンスター―想像力の文化比較 (学習院女子大学グローバルスタディーズ)

 

 東洋の「妖怪」、西洋の「モンスター」のような、東西の「超自然的存在」の比較研究を中心とした、比較文化論の論文集です。

 妖怪の比較文化研究の試みは、過去の論集『進化する妖怪文化研究』(2017)などでも行われており、恐らく専門の学会誌での発表もなされていると思いますが、「妖怪比較文化研究」をメインとした論文集は本書が初めてではないかと思われます。

〈内容紹介〉勉誠出版公式HPより引用
 妖怪比較文化研究の最先端

 非実在の生き物を造形する営みの歴史は東西に共通してみられ、日本においては妖怪、西洋においてはモンスターや妖精として古くから語り継がれてきた。現代でもポップカルチャーの一端を担い、「妖怪ブーム」をもたらしている。
 それぞれの文化で育まれてきた「見えないもの」の物語を通して、精神文化の差異と類似、普遍性を探る11章。

 

 妖怪研究と聞くと、とりあえず読んでみたくなる業の深さをお許しください。何はともあれ本書は、以下の目次から構成されています。

序言(徳田和夫)

総論
怪異と驚異の東西―妖怪・モンスター(徳田和夫)

第1章 怪談と怪物
・二つの「一つ家」国芳芳年の「安達ケ原」をめぐって小松和彦
・驚異から予言まで―西洋の怪物表象(尾形希和子)

第2章 東西に照らす
・妖怪・モンスターの攻略―鏡の呪力伝承を通して(徳田和夫)
・妖怪概念のグローバル化の試み―南フランスの妖怪を中心にして(マティアス・ハイエク
・本の妖怪、妖怪の本―東西の付喪神(ケラー・キンブロー)
・蛇女の変容―「レイミア」と「蛇性の婬」の場合(木村恵子)

第3章 思想の響き合い
平田篤胤における実在と不在をめぐる問題―特に霊魂不滅との関連で(根占献一)
・光るものは奇跡か妖怪かー和洋・神仏における発光するものへの好悪感覚の相違山本陽子

第4章 東の観想
・水陸斎・水陸斎図、掲鉢図からみた植物の擬人化の様相(伊藤信博)
・中世の妖怪―「鵺」と「土蜘蛛」の名前について(岩崎雅彦)
・日本のサブカルチャーにおける〈生ける屍〉の展開ライトノベルを中心に伊藤慎吾)

編集を終えて(徳田和夫)

 現在放映中のアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』新シーズンでは、次回から「西洋妖怪編」が始まるそうですね。残念ながら私は完全に見逃してしまっているので、鬼太郎について特にコメントすることができないのですが(申し訳ない)、日本と同じように西洋にも「妖怪」的な存在があるというイメージが反映されていると言うことはできるでしょう。

 こうしたイメージは、『鬼太郎』の原作者たる水木御大の仕事を含め、様々な「妖怪もの」のフィクション作品で反復されてきましたが、学術的に東西世界の「妖怪」的存在を比較した試みは意外と少ないように感じます。

 恐らくその要因としては、妖怪であれモンスターであれ妖精であれ、どれも人間による想像上の産物であり、実在しないために研究対象が曖昧なものにならざるを得ない、という点が大きいのではないかと推測しています。

 これまでも、東西の「妖怪」的存在の比較を試みた研究はいくつか存在しますが、その研究対象自体が曖昧であることから、比較をしようにも比較の対象が広くなりすぎ、結果的に何やら散漫な比較文化論に陥っているという印象を受けます。あくまで個人的な感覚ではありますが、本書にもいくつかそうした傾向にある論考が見受けられます。

「日本の妖怪はこんな感じだが、西洋のモンスターにも同様の思想が見受けられる」と言われても、「まぁ確かに似てるかもしれないけど、歴史的・文化的な背景とか全然違うし、そもそもそれらを同列に扱っちゃっていいの?」という風に思ってしまうことが多いので、あまりこういった比較文化論は読んでいて腑に落ちないことが多いのです。繰り返しますが、あくまで個人的にそう感じる、というだけの話ではありますが。

 しかしながらこうした感覚に関連して、本書で刺激的だった論考が、マティアス・ハイエク氏の「妖怪概念のグローバル化の試み」でした。

 ハイエク氏は論考冒頭にて、人気ゲーム「妖怪ウォッチ」がフランスに輸入された際、タイトルがそのまま「Yo-Kai Watch」として発売されたことを紹介し、「「妖怪」(yokai)は「haiku」や「sushi」などのようにすでに「日本特有の文化」と捉えられるようになったようである。逆に言うと、「妖怪」を「翻訳」する必要はない、あるいは「翻訳できない」ものと認識されている〔p160〕」と述べた上で、次のように主張します。

しかし筆者はむしろ、日本文化が育んだ「妖怪文化」を根底に作られた「妖怪概念」を、人間社会の普遍的な概念にして、世界の妖怪文化を発掘することこそ、重大な課題であると考えている。〔p160〕

 忘れられがちですが、「妖怪」という単語はそもそも学問上の分析概念です。漫画やアニメ等のフィクション作品ならともかく、論文などで「妖怪」という言葉が使用される際は、その言葉が差し示す対象を研究者それぞれが自分なりの設定をしているはずです。特に何も考えず使っているような論考もたまに見受けられますが。

  ハイエク氏は分析概念としての「妖怪」という用語を、日本以外の超自然的存在にも適応させ、普遍的な学術概念とすることを提案しています。つまり、「妖怪概念のグローバル化」です。

 従来、西洋の「モンスター」や「妖精」という言葉が、日本の「妖怪」と対応する概念として捉えられてきたわけですが、細かく検討するとどちらも超自然的存在を全般的に指し示す用語ではないということを、ハイエク氏は指摘します。

 要するに、日本の学術用語としての「妖怪」に対する欧州言語の言葉は当時も今もないわけで、比較文化的な研究を試みると、「妖怪」と「怪物」、あるいは「妖怪」と「妖精」という、実に不均等な組み合わせになりがちである。
 そこでいっそのこと、すでに一つの普遍化を果たした「妖怪」概念を、シャーマンやマナのようにヨーロッパにも適応したほうが、この概念の普遍性を増やしつつ、人間文化としての妖怪文化の輪郭を浮かびあがらせることへと繋がっていくのではなかろうか。〔p165〕

 ハイエク氏はこのように提言した後、事例研究として南フランスのドラクやタラスクといった「妖怪」伝承の分析を通して「妖怪」概念の普遍化の方法を探っていくのですが、その詳細をここで紹介することはしません。

 ともあれハイエク氏の主張は、「妖怪比較文化研究」において非常に示唆に富む提言であると考えます。超自然的存在を指し示す普遍的概念として、「妖怪」という言葉が本当に適当かどうかは議論が重ねられるべき問題でしょうが、汎世界的に比較可能な概念を作り出すための試みは行われて然るべきでしょう。

 思えばサブカルチャーの分野では、「妖怪」と「モンスター」との融合は果たされつつあると言えるかもしれませんが、学術の世界でそれらを融合する言葉は成立するのでしょうか。「グローバル化」の中の比較文化論において、興味深い問題だと思います。