河原に落ちていた日記帳

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【読書備忘録】小澤実編『近代日本の偽史言説』(2017)

『月刊ムー』やらで散々繰り返されていそうなトンデモ歴史言説に*1、11人のアカデミズムの研究者が考察を加えた論文集です。とは言え「偽史」の内容そのものが学問的に妥当か否かではなく、その荒唐無稽な言説が生成された歴史的背景が考察されています。

 本書の序章でも言及されていますが、過去の偽史言説研究は主に在野の研究者たちによって担われてきました(長山靖生『偽史冒険世界』など)。本書はそうした好事的な関心を惹きつけてきた偽史言説を、近代思想史上に位置づける試みと言えるでしょう。

〈内容紹介〉Amazonの商品紹介欄より引用
 歴史とは何か―
「チンギスハンは源義経である」「イエス・キリストは日本で死んだ」「アトランティス大陸は実在する」「ユダヤ人が世界の転覆を狙っている」…。
 現代に生きるわれわれも一度は耳にしたことがある俄かに信じがたい言説のかずかず。
 近代日本において、何故、このような荒唐無稽な物語が展開・流布していったのか。
 オルタナティブな歴史叙述のあり方を照射することで、歴史を描き出す行為の意味をあぶりだす画期的成果。

 TwitterほかSNSで大きく話題を呼んだシンポジウム「近代日本の偽史言説」をベースにした刺激的な一冊!

 

 本書の存在は以前から把握してはいたのですが、個人で購入するには少し躊躇してしまうお値段だったので、近所の図書館で借りて読もうと思っていました。しかし本書を3ヶ月以上超過して借り続ける不埒な者がいたため、なかなか読むことができず頭を掻きむしったものですが、これは私に偽史の研究書を読んでほしくない何者かがいるということでしょうか(ものぐさ陰謀論

 兎にも角にも、本書は以下の目次で構成されています。てんこ盛りです。

序章 偽史言説研究の射程(小澤実)

◎第1部 地域意識と神代史
第一章 偽文書「椿井文書」が受容される理由(馬部隆弘)
第二章 神代文字平田国学(三ツ松誠)
第三章 近代竹内文献という出来事―〝偽史〟の生成と制度への問い(永岡崇)

◎第2部 創造される「日本」
第四章 「日本古代史」を語るということ―「肇国」をめぐる「皇国史観」と「偽史」の相剋(長谷川亮一)
第五章 戦時下の英雄伝説小谷部全一郎『成吉思汗は義経なり』(興亜国民版)を読む石川巧

◎第3部 同祖論の系譜
第六章 ユダヤ陰謀説―日本における「シオン議定書」の伝播(高尾千津子)
第七章 酒井勝軍の歴史記述と日猶同祖論(山本伸一
第八章 日猶同祖論の射程―旧約預言から『ダ・ヴィンチ・コード』まで(津城寛文)

◎第4部 偽史のグローバリゼーション
第九章 「日本の」芸能・音楽とは何か白柳秀湖の傀儡子=ジプシー説からの考察(齋藤桂)
第十章 原田敬吾の「日本人=バビロン起源説」とバビロン学会(前島礼子)
第十一章 「失われた大陸」言説の系譜―日本にとってのアトランティスムー大陸(庄子大亮)

偽史関連年表
あとがき

 オカルトファンが愛してやまない、そうそうたるネタの数々が集結しています。本書の基となったシンポジウムが大きな話題を呼んだというのも頷けることで、質疑応答では一体どのような議論が繰り広げられたのか非常に気になるところです。

 これまで興味本位での消費と再生産が繰り返されてきた偽史言説を、歴史に即して見ていくことで、近代という時代のどういった一面が見えてくるのか。小澤実氏は偽史言説の特徴として、①背景としての信仰世界、②軍部との親和性、③地域社会との密接な関係〔p10-12〕、の3点を指摘しています。

 やはり偽史言説とは、日本の近代化という混乱状況の中で生み出された鬼子だったと言えるでしょう。そして現在でも偽史的な言説が湧き出続ける現代社会において、偽史言説が生成する過程を考えることは無駄なことではありません。

 ところで、偽史言説を創り出す人々の動機は興味深いものがありますが、大事なのは「なぜ人々は偽史を信じるのか」ということでしょう。学問的には完全に否定されているのにも関わらず、偽史に一片の真実性を感じてしまうのは、どうしてなのか。

 様々な考え方があると思いますが、私は「事実」と「不確実」の間に巧みに入り込んでいく偽史の特徴から、人は「歴史の真実」を読み取ってしまうのではないか、と考えています。

 歴史学者は当然、史料を読み解き過去の歴史を組み立てていくわけですが、史料に書かれていないことは分からない、という不確実性は常に付きまといます。また史料には、必ずしも事実だけが書かれているわけではないという不確実性も同時に存在します。

 そのため研究者は史料批判を重ね、現在分かる範囲で歴史の事実を慎重に積み上げていかなければならないのですが、その過程で生じる歴史の不確実性を突いて、偽史言説はするりと入り込んでいくのです。

 別にその言説が、現実的にもっともらしいものでなくてもいいのです。昔のことなんて実際には誰にも分からないのだから、源義経ジンギスカンになり、アトランティス大陸ムー大陸が実在し、日本の神々から全世界が生まれていくのです。完全否定できる証拠がない以上、厄介なことに偽史言説は一定の真実性を自動的に帯びてしまうのです。

 また偽史言説を担う者が、学問から異端視された在野の人物が多い、ということも偽史が人を惹きつける要因の一つでしょう。

 一般的なイメージとして、学者は学者というだけで一定の権威を身につけた存在と捉えられます。その権威に真っ向から対立する孤高の異端的研究者、という構図が見る人の人気を呼ぶのです。フィクション作品内で「学界の異端児」という肩書を持つキャラが頻繁に登場するのも、「権威的学者vs異端の研究者」の構造と無関係ではないのかもしれません。*2

 本書を通読してそんなことを考えながら、偽史言説の持つ意外な影響の大きさに思いを馳せていました。歴史学において、偽史言説は避けては通れない問題だと思いますが、それに関して本書で是非とも読んでおきたいのが、以下の論考です。

 

◎馬場隆弘「偽文書『椿井文書』が受容される理由」

 本書トップを飾る論考です。他で扱われる偽史言説と比べると、『椿井文書』は少々マイナーかもしれません(私も本書を読むまで知りませんでした)が、本書の冒頭を飾るのに相応しいすこぶる興味深い論考です。

『椿井文書』とは、椿井政隆(1770-1837)という江戸時代の人物が偽作した偽文書群のこと。彼は近畿地方一円に相当数の偽文書を残しており、それらが中世期の地域史の正当な史料として、自治体史等に受容されてしまう過程を馬場氏は考察しています。

 椿井政隆は、村同士の対立等で論争を有利にする資料を欲している地域に対し、偽文書を制作し売買することで収入を得ていたようです。その際は既存の地誌類から情報を取り入れるなど、信憑性を高めるための様々な工夫を行っていたというのですから手の込んだことです。

 馬場氏の言では「古文書学の訓練を多少積んだものが椿井文書の現物を見れば、偽文書であることは一目瞭然〔p23〕」とのことですが、何しろ数が多い上にそれなりの手間をかけて作られた偽文書なので、近代以降も正当な史料として『椿井文書』が地域に受容されてしまう事例も少なからず出てきます。そして偽文書だと判明したところで時すでに遅し、『椿井文書』は引っ込みがつかないほど地域史に浸透してしまっているのです。

 この論考を読んだとき、私は『椿井文書』と『東日流外三郡誌』の生成プロセスが相似形を成していることに驚きました。流石に偽文書としての完成度は比べるべくもありませんが、どちらも「何らかの形で史料を欲している地域に現れた」という点や、「一部の研究者が御墨付きを与えてしまい、偽文書に箔が付けられてしまった」という点が一致します。*3

 本論考では『椿井文書』を受容した研究者による馬場氏への反論についても触れられているのですが、これが「偽文書だとしてもその中には真実も含まれているはずだ」というような反論で、所謂「古史古伝」の真書派と全く同じ言い草です。自らのアイデンティティの拠り所を、屁理屈を用いてでも正当化したいという意識が垣間見えます。

 馬場氏は最後に、「近世・近現代の史料として真正面から(椿井文書に)取り組み、椿井政隆が何を考えていたのか、あるいは椿井文書が人々の生活の中でどのような役割を果たしてきたのか、これらの究明にこそ力を入れるべきである〔p53〕」として、論考を締めくくっています。

 史料に即して歴史を構築する歴史学、その学問自体に内在する難しさを、本論考は示しているように思えました。オカルト的な偽史言説には特に興味がない方でも、歴史学に興味を持っている人であれば、本論考は必読の文献だと言えるでしょう。

*1:2018/10/13追記:よく考えると私は『月刊ムー』を読んだことがないので、ここで引き合いに出したのは誤りでした。心よりお詫びいたします。

*2:「学界の異端児」を自称する人は、大抵の場合ただ単に学者に相手にされていないだけと思われます。また実際に学界でそう呼ばれる研究者がいたとしても、かなり肩身の狭い思いをしていることが予想でき、現実はそう格好の良いものではないでしょう。

*3:東日流外三郡誌』の生成過程は、藤原明(2010)「近代の偽書東日流外三郡誌』の生成と郷土史家」(由谷裕哉・時枝務編『郷土史と近代日本』角川学芸出版)を参照。