河原に落ちていた日記帳

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【読書備忘録】藤原明『日本の偽書』(2004)

日本の偽書 (文春新書)

日本の偽書 (文春新書)

 

 ノンフィクションライターの藤原明氏による、俗に「古史古伝」「超古代史」などと呼ばれる偽書について紹介した本です。著者は在野の方ではありますが、こうした怪しげな史書に対して学術的なアプローチを試みた好著でございます。

 著者の藤原氏は、私の確認できた限りでは1993年からこうした偽書に関する論考を発表されています。『偽文書学入門』では「近代の偽書―"超古代史"から"近代偽撰国史"へ」という論文を寄稿されており、同書に併録された「近代の偽書解説」には各種の偽書について詳細に解説されており有用です。*1

2019/04/28追記
 2019年5月7日に、本書が河出文庫から再版されることが決定しました。私も早速買おうと思います。

日本の偽書 (河出文庫 ふ 19-1)

日本の偽書 (河出文庫 ふ 19-1)

 

〈内容紹介〉Amazonの商品紹介欄より引用
 “記紀以前の書”といった荒唐無稽な偽書のたぐいには、意外にも正史には見られぬような精彩のある歴史像が描かれている。超国家主義者と深くかかわる『上記』『竹内文献』、東北幻想が生んだ『東日流外三郡誌』『秀真伝』など、本書では世間を騒がせた「太古文献」と呼ばれる偽書を取り上げ、ただあげつらうのではなく、どのようなメカニズムで人々の興奮を掻き立てて来たのかを検証し、人はなぜ偽書に魅せられるのか、その謎を詳細にさぐる。

 

 藤原氏は、上で紹介した論文「近代の偽書」において「古史古伝」「超古代史」といった名称を非学術的な言葉として退けており、それに代わる名称として「近代偽撰国史」を提案しておられます。

 同論文では、近代偽撰国史として計23種の偽書を挙げておられるのですが、本書『日本の偽書』ではそのうち『上記』『竹内文献』『東日流外三郡誌』『秀真伝』の4種を中心に紹介しておられます。

 他に近代の偽書で有名なものとしては『宮下文献』『九鬼文献』『安倍文献』等がありますが、『宮下文献』については藤原氏が各所で論考を発表されているので、詳しくはそちらを参照のこと。*2

 またそれらに加え、平安期の偽書先代旧事本紀』と、近世期の派生本『先代旧事本紀大成経』という2つの書物についても言及されており、〈中世日本紀〉などと呼ばれる中世の思想言説と、近世~近代に現れる偽書との連続性を指摘している点が、藤原氏の緒論の特徴と言えます。

 本書は、以下の目次で構成されています。

1.人はなぜ偽書を信じるのか

2.超国家主義者と二大偽書『上記』と『竹内文献

3.東北幻想が生んだ偽書東日流外三郡誌』と『秀真伝』

4.「記紀」の前史を名のる偽書先代旧事本紀』と『先代旧事本紀大成経

5.偽書の何が人をひきつけるのか

あとがき

 本書は、コンパクトな新書サイズということで内容的には少し物足りなく感じる部分もありますが、偽書の概要やそれが生み出された経緯などが要領よく解説されているため、偽書入門編としては優れた著書だと思います。惜しむらくは、既に絶版で手に入りにくいということですが。

 著者の藤原氏はまず冒頭で、偽書の内容を荒唐無稽なものとしながらも、そのことをことさらに糾弾するのではなく、偽書が生み出された歴史的な背景や意義こそを明らかにする必要があると主張します。

偽書がデタラメなものであることは、それが発見された当初はともかく後は自明のことである。それのみを論じるのは不毛である。(中略)
 本書ではこのような糾弾調の論議とは別の路線をとろうと思う。真に必要なことは、偽書というものが存在するのも一つの歴史的事実であることをうけとめ、それがどういう意味を持つのか醒めた目で分析し、学問の上に位置づけることにあると考える。〔p23〕

 確かに「古史古伝」については、真書派の主張はともかく偽書派の述べるところも、何の価値もないと糾弾するかトンデモネタとして面白おかしく紹介するかの2パターンだけであり、学問的にそれほど意義があるとは思えません。

 そんな中、偽書それ自体の持つ意味を分析しようという藤原氏の主張は首肯できるものであり、貴重な意見の一つと言えます。

 その具体的事例として、第2章では『竹内文献』、第3章は『東日流外三郡誌』を取り上げられていますが、藤原氏はこれら2書の発生メカニズムについて、〈言説のキャッチボール〉という概念で説明しています。

 〈言説のキャッチボール〉とは何ぞや。藤原氏の言葉を借りると、「ある人物の言説を取り込んで新たな創造物が生成されるメカニズム〔p61〕」のこと。

 例えば『竹内文献』は、酒井勝軍という日猶同祖論者の影響で、古代日本にモーゼやキリストが訪れていた、などといった記述が偽作されていきました。現在、青森県イエス・キリストの墓があるということはよく知られていますが、実はそれは『竹内文献』との絡みで昭和10年頃に「発見」されたものです。

 『東日流外三郡誌』は他の偽書と異なり戦後に入ってから偽作されたものですが、これもやはり現地の郷土史家と偽作者との間で〈言説のキャッチボール〉が行われ、膨大な偽書群が作成されたものと著者は述べます。これに関しては、後に著者が別稿を用意してより詳細な分析がなされています。*3

 しかしここで最大の問題となるのが、『上記』です。『竹内文献』を始め、多くの近代の偽書の大本となったと考えられるのが『上記』という偽書なのですが、*4その成立過程にはいまだ不明確な部分が多く残されているのです。

 結論から言えば、『上記』を偽作した人物はその「発見者」である国学者、幸松葉枝尺その人である、というのが本書の見解です。*5しかし偽作の目的がはっきりしないということの他、『上記』の内容全てが幸松の創作というわけではなく、何らかの先行する資料を基にした可能性が指摘されており、その原資料の実態はいまだ謎であるとしています。*6

 また3章で言及される『秀真伝』は、本書では「東北幻想」との絡みで紹介されていますが、ことはそう単純ではない気がします。『秀真伝』は東北だけに重点を置いているわけではないし、つい最近刊行された吉田唯氏の著書では、『秀真伝』と和歌の秘法との深い関わりが指摘されています。*7『秀真伝』はかなり複雑な思想性を内に孕んでいると思うのですが、本書ではあまり深く掘り下げられていないのが残念に思いました。

 また『秀真伝』が知られるようになったのは確かに近代以降なのですが、存在自体は江戸中期まで確認でき、本書で紹介されている偽書の中では成立が最も古いと考えられます。

 そういったわけで私は、今後研究する上での伸びしろが大きい偽書は『秀真伝』と『上記』ではないかと考えています。今後の研究の進展に期待です。

 また本書は前述した通り、〈中世日本紀〉と呼ばれる中世期の神話言説と、近世以降に現れる偽書との連続性を説いているのが重要な点だと思うのですが、どうしてもその部分の考察が手薄になっている印象も受けました。

 しかし吉田唯氏が『秀真伝』の研究で明らかにしている通り、中世期の神道思想が近世以降の偽書にも取り込まれていることは確かでしょう。本書における藤原氏の主張は、先見性のある傾聴すべき見解として評価すべきです。

 ネット上では本書に対して否定的な意見も案外見られますが、私は『竹内文献』等の「トンデモ史書」と呼ばれる奇書に対し、学術的に向き合うためのヒントを与えてくれる良書だと思っています。ただ繰り返しになりますが、本書に関して一番残念に思うのは、既に絶版となっていることです。(追記:先にも述べた通り、2019年5月に河出文庫から再版されました。)

 このことが残念だと思うのには一応理由があり、ネット上で近世・近代以降の偽書の名前を検索してみると分かるのですが、学問的には完全否定されているにも関わらず、偽書を何となく信じている人がけっこうおられます。特に『秀真伝』と『上記』は、信じている人が多い気がします。

 これがオカルト好きな一個人の嗜好に留まるものであれば、別にそこまで目くじらを立てる必要もないのですが、これらの偽書への愛好は一歩間違えてしまうとカルトなまでの国家主義に陥ってしまう恐れがあるのです。

 実際、世界は全て日本から生まれたと説く『竹内文献』は、かつて軍人の信奉者が多かったと言います。反対に「正史から葬られた真実の歴史」として、カルト的な反体制派の信奉者も存在し、正にカオスの様相です。

 偽書に対して宗教的なまでの信仰心を持っている人に対して、正論を説くのは恐らく時間の無駄でしょう。しかしごく普通の人が、何かのきっかけで『秀真伝』や『上記』の記す怪しくも興味深い神話に触れたとき、その内容を「何となく」信じてしまうということに、私は強い危惧を覚えるのです。

 アカデミズムな立場にある研究者の方々は、時間の無駄にしかならないので、偽書に対して見向きもしません。ややこしいものには首を突っ込まないのは当然の態度です。しかし研究者が全く手を出さないことによって、偽書研究は三流のオカルト作家の独壇場となり、結果的に一般の人々に誤解が広がることになるのではないかと思ったりするのです。

 そうした事態を少しでも改善するためには、偽書偽史のまともな研究書を出し続けるしかないと考えるものですが、残念ながらこれらのまともな研究を行っている人はほんの僅かしかいません。*8

 しかし中世期の偽書が近年盛んに研究されるようになったことで、近世以降の偽書についても思想史的な光が当てられつつあるように感じます。今はほんの小さな波でしょうが、今後少しでも大きな潮流となることを願っています。

*1:時枝務・久野俊彦編(2004)『偽文書学入門』柏書房

*2:註1「近代の偽書」の他、「物語的偽書『富士文献』の重層構造」(『別冊歴史読本古史古伝」論争』新人物往来社、1993年)、「偽書『富士文献』と近代日本の高天原幻想」(『歴史を変えた偽書 大事件に影響を与えた裏文書たち』ジャパン・ミックス、1996年)など。

*3:藤原明(2010)「近代の偽書東日流外三郡誌』の生成と郷土史家」(由谷裕哉・時枝務編『郷土史と近代日本』角川学芸出版

*4:正確に言えば『上記』そのものではなく、抄訳版の『上記鈔訳』が明治以降に現れる偽書に影響を与えたことが明らかになっています(藤野七穂(1993)「『上記鈔訳』と"古史古伝"の派生関係」『別冊歴史読本古史古伝」論争』新人物往来社、及び同氏の雑誌連載「偽史源流行」を参照のこと)。

*5:幸松偽作説については、吉森健氏が詳細な検討を行っています。(「春藤倚松大友本で見えてきた 偽書ウエツフミの作者」「偽書ウエツフミの作者 幸松葉枝尺と大友本」)

*6:具体的には、『上記』には神武以前に「ウガヤフキアエズ王朝」が72代続いたとする特異な王統譜が記されており、幸松が偽作した際にウガヤ王統譜の基となる何らかの資料を参照していた可能性が指摘されています。ただしその「原ウガヤ王統譜」が実在していたとしても、それが古代にまで遡るものでないことは確かでしょう。藤原氏はウガヤ王統譜の源流として、中世の偽書に記された、正史とは異なる神々の系譜が基となった可能性を仮説として提示しています。

*7:吉田唯(2018)『神代文字の思想 ホツマ文献を読み解く』平凡社

*8:藤原明氏・吉田唯氏以外では、原田実氏や藤野七穂氏のお二方が名前に挙げられる程度でしょうか。しかし吉田氏以外は全員在野の立場であり、アカデミズムによる偽書研究の関心の薄さが表れているように思えます。なお藤野氏は「偽史源流行」という、『上記』以降の偽書の成立過程を緻密に検証した雑誌連載を発表されているのですが、いまだ単行本化がなされていません。私は『偽史源流行』の単行本化をいつまでもお待ちしております。