河原に落ちていた日記帳

趣味や日々の暮らしについて、淡々と綴っていくだけのブログです。

【読書備忘録】田中康弘『山怪 山人が語る不思議な話』(2015)

山怪 山人が語る不思議な話

山怪 山人が語る不思議な話

 

 図書館の民俗学の書棚に置いてあるのを見て、借りてみました。

 今のところ3巻まで刊行されていますが、私はそのうち2巻までを読んでおります。

〈内容紹介〉山と渓谷社方式HPより引用
 著者の田中康弘氏が、交流のある秋田・阿仁のマタギたちや、各地の猟師、山で働き暮らす人びとからから、実話として聞いた山の奇妙で怖ろしい体験談を多数収録。
 話者が自分で経験したこととして語る物語は、リアリティがあり、かつとらえどころのない山の裏側の世界を垣間見させてくれる。
 山の怪談。現代版遠野物語

 

 いわゆる怪談というものを聞くのは好きなんですが、考えてみると本で怪談を読んだことはあまりありませんでした。

 本書は、日本全国の狩猟文化等を取材しているカメラマンである著者による、山に纏わる怪異譚を収集した著作です。

 例を示すと、狐に騙されて裸で歩き回っていた人の話や、伐採の時季外れに聞こえるはずの無いチェーンソーの音を聞いた話、歩き慣れている道で何故か迷ってしまった話、夜の山中で不思議な光を見た話、神隠しが起こったことの話、などなど……

 本書に収められた話の数々は、怪談というよりも、民俗学用語における「世間話」としか言えないような、ある種素朴な味わいを持つものばかりです。しかしだからこそ、洗練された恐怖譚とはまた違った不思議なリアリティを読むものに与えます。

 興味深く思うのは、本書の話者たちは遭遇した怪異に対して、現代においても狐や狸の仕業として捉えている例が多いということです。中でもとりわけ多いのは狐の仕業とされる話で、とにかく山の中で不思議なことが起こると大抵狐のせいにされています。これは怪異に対する解釈の一つとして狐がその正体とされているわけですが、その意味では狐はかなりの便利屋と言えるでしょう。

 もちろん田中氏は現在の人々に取材を行っているので、怪異など信じないという、合理的な考えを持つ人の話も多く載せられています。しかしそうした人たちも、怪異自体に遭遇していたりはするのですが、その怪異に対して科学的な解釈を用いることで事態の解決を図っていると言えましょう。

 特に本書で多く見られる「科学的」解釈は、人魂や狐火と呼ばれるような不思議な光を、土中に含まれるリンが自然発光したものとして捉えるものです。これは実際によく聞く話ではありますが、リンが山中で自然発光するというのは事実としてよくあることなのでしょうか? もしかして「カマイタチ真空説」と同じように、科学的に見えるだけの迷信だったりはしないかと秘かに疑っているのですが、その辺りについて詳しく検証した論考とかないものでしょうか。

 田中氏はこうした解釈を行う人に対し、「実は一番釈然としない思いをしているのは本人自身なのではないか」と疑いの眼差しを向けています。少なくとも怪異現象に対して、狐や狸よりかは自分にとって納得できそうな解釈を当てはめている、ということは言えそうです。

 ところで本書やその続編を通読して改めて思うことは、怪異とは本来姿を持つものではないということです。

 今でこそ水木御大の仕事により、様々な妖怪には固有の姿形が与えられているわけですが、本来地域で伝えられていた怪異譚・妖怪譚に、妖怪ウォッチのような個性的な妖怪が登場することはありません。言ってしまえば物凄く没個性的で、しかも大抵は狐狸の仕業とされます。そのため本書のp126に掲載されている、「釣りの途中に沢の奥から恐ろしい女が迫ってきたので逃げた」という話が、あまりにも恐ろしさが具体的なので異様に本書の中では浮いて見えます。もしかしたらそれは怪異ではなく、本当にそういう不審者が現れたのではないかと思ったくらいです。

 本書には素朴な、そして没個性的な怪異譚が凝縮されており、本来「妖怪」と呼ばれるもののルーツはこうした話だったということを再認識させられます。

 

 ところで現代において「幽霊を見た」とか「人魂を見た」と言ったとき、その人が嘘を吐いたわけではなくとも、それが実際に起きたことと扱われることは普通ないでしょう。大抵は、その人の勘違いや幻覚ということで説明が付いてしまう……とされているからです。

 民俗学という学問では、そうした幽霊話や妖怪譚を一応研究対象の一つとして扱っているわけですが、それら怪異現象の実在について、問題にされることはまずありません。

 言い切ってしまうなら、「幽霊や妖怪といった怪異は実在しない」という前提で民俗学者は研究を行います。つまり、怪異現象はあくまでも人間の心象が作り出したものとして捉えているのです。

 そんなわけで、学問的な世界においては怪異をあくまで「見た人の気のせい」として片付けてしまうわけですが、果たしてそうした説明によって世の中から怪異がなくなることはあるのでしょうか。

 むしろ怪異に遭遇した人にとって、そのような「科学的」解釈は何の意味も持たないのではないか。とにかく、普通でない不思議なことに遭ってしまう人はいつの時代でも存在するわけです。その人に向かって、気のせいあるいは発光物質説などの理性的講釈を垂れたところで、完全に納得できるものではないはずです。そんな訳で、これからどれだけ科学技術が発達しようと、怪異現象が人々の間から消滅することはないと考えています。

 とは言え私は霊感が皆無なので、幽霊等を全く見たことがなく当然そんなに信じてもいないのですが。

 しかしそんなに信じていないとは言え、この「そんなに」という部分が重要だと思うのです。つまり、完全に信じていないというわけでもなく、ある程度は怪異を許容する余地があるということであり、それはもしかすると幽霊も本当にいるのかもしれない……という感覚を無意識の内に持っているということなのです。

 人によって程度の差はあれ、ある程度こうした感覚は人々の間で共通するものではないかと思います。そうであるからこそ本書のような怪談本が売れ続けるのです。

 その感覚が極端なまでに高じてしまうと、霊感商法など人の道を踏み外す方向へと進んでしまうので困りものですが、現代社会を生きる私も多少は怪異を受け入れる余裕を持っていた方が世の中生きやすいのかな、と思ったりもするのでした。