河原に落ちていた日記帳

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【読書備忘録】宮崎賢太郎『カクレキリシタン 現代に生きる民俗信仰』(2018)

カクレキリシタン 現代に生きる民俗信仰 (角川ソフィア文庫)

カクレキリシタン 現代に生きる民俗信仰 (角川ソフィア文庫)

 

 図書館の新刊図書として入っているのを見かけ、借りてみました。

 つい先月には長崎・天草の「潜伏キリシタン」関連遺産が世界文化遺産に登録されたということもありますし、軽くカクレキリシタンについて把握しておいて損はなかろうという気持ちで読み始めたのですが、予想以上に濃い内容で驚きました。

 

〈内容紹介〉Amazon商品説明より引用
 長崎に今も、カクレキリシタンがいるのを知っていますか?

 信仰の自由が認められている現代、長崎県下には今なお、潜伏時代の信仰を守る人々、カクレキリシタンがいる。
 だが、彼らは隠れてもいなければキリシタンでもない。
 その信仰世界は、キリスト教徒大きく異なり、神や儀礼、唱文などは、日本の伝統的な先祖崇拝や生活と融合し、独自の民俗宗教へと変貌していた。
 秘蔵の像や行事の様子など、貴重な写真を多数掲載。
 圧巻のフィールドワークで、知られざる「独自宗教」を活写する。

 

  世界遺産登録についてのニュースを初めて読んだときは、「潜伏キリシタン」という耳慣れない単語に違和感を覚え、「カクレキリシタンじゃないの……?」と思わず呟いてしまいました。

 要は、江戸時代の禁教期において隠れながら信仰を保持したキリシタンを「潜伏キリシタン」と呼び、明治以降に信仰の自由が保障された後も、カトリックには戻らず独自の信仰を継続した集団を「カクレキリシタン」と呼び区別しているようです。

 さてそんなカクレキリシタンのイメージとして、「禁教期に仏教や神道を隠れ蓑としてキリスト教に帰依し続けた結果、時代が下るごとにそれらが混ざり合い、最終的にはカトリックとは似ても似つかない独特の混淆宗教になった」という話が実しやかに語られています。

 私自身カクレキリシタンと聞くと、諸星大二郎氏の『妖怪ハンター』シリーズの一編「生命の木」*1や、それを実写映画化した『奇談』*2をまず最初に思い出してしまいます。

 あるいは『SIREN』という名作ホラーゲームがありますが、作中に出てくる「眞魚教」という土着信仰も、カクレキリシタンのイメージをモデルとして創作されたものかもしれません。

 流石に上の作品ほど極端ではありませんが、私がカクレキリシタンに対し持っていたイメージも「仏教・神道キリスト教が習合した民間信仰」というものでした。

 しかし本書を一読した今、こうしたイメージは少し間違っていたのではないかと思い始めています。

 具体的にどう言うべきなのかは考えあぐねているところなのですが、要は在来の信仰と何とか折り合いをつけるために、信徒たちがキリスト教の信仰生活をアレンジしていった結果がカクレキリシタンという形になったのではないか、と。

 カトリック本来の教えと乖離していると言ったとき、どの程度が「乖離」と言えるのかは難しいところですが、少なくとも一部の好事家が「混淆宗教」と言うほどにグロテスクなものになっているわけではないと思います。

 まず村落社会というのは、家々との付き合いが日々を生きる上で重要になるわけであり、キリスト教に改宗しても他の宗教的な付き合いを絶やすわけにはいきません。なのでキリスト教式の信仰生活を送りつつ、在来の宗教とも上手く付き合わなければならない。そこで、信仰内容の変化が自然と起こってきます。

 また神父さんのような宗教的指導者が存在しない状態で、何百年も信仰を周囲からは隠しながら保持していくわけですから、そこに日本的な宗教的観念が入り込むのも当然と言えば当然のことでしょう。

 具体的には、独自に聖人伝説を作って信仰したり、そうした聖人を神社に祀ったり、先祖崇拝の要素を入れたり。それを「習合」と呼ぶかどうかは人の感覚によるでしょうが、結局は地元民にとって分かりやすい形にアレンジしていった結果なのでしょう。

 これを「隠れ蓑」と呼んでいいものかどうか、今一度再考を要する問題かと思います。

 

 本書はそうしたカクレキリシタンの信仰の実態を、宮崎氏自身の調査から詳細に叙述されています。

 ちなみに本書は、元々2001年に刊行された著作であり、そこに2018年現在の最新情報を大幅に書き加えたものです。その加筆部分を読むと、カクレキリシタンの厳しい現状がまざまざと浮かぶようであり、恐らくそう遠くない将来、生きた信仰としてのカクレキリシタンは終焉を迎えるのでしょう。

 カクレキリシタン組織が解散する共通する理由は、言うまでもなく人数不足、後継者不足による信仰生活の困難化です。しかし、そんな中でも信仰を保持している人々は僅かながらも存在します。

 しかし彼らは、別に「伝統を後世に伝えるため」とかいう理由で保持しているわけではありません。

「先祖がやってきたことを自分の代で辞めるのは申し訳ない」だとか、あるいは「祀るのをやめると祟りがあるから」といった、言ってしまえば現代日本ではよくある理由です。

 特に本書において頻繁に見かけるのは、連綿と信仰を続けてきた「先祖」という言葉です。画一的な日本人論に回収するのはあまり好きではありませんが、やはり日本人にとって「先祖」という存在は大きな意味を持っており、様々な場面での規制となっていることを認識させられました。

 そして結局のところ、次に引用する宮崎氏の言葉が、カクレキリシタンの信仰の本質を端的に表しているのではないでしょうか。

「今も変わることなく、仏教や神道を隠れ蓑として秘かにキリシタンの信仰を守り続けている」というロマンチックなイメージは、部外者によって作り上げられた夢とファンタジーである。私にはなぜ部外者がキリシタンなのかキリシタンではないのか、白黒をはっきりさせたがるのか理解できない。仏様も拝み、いろんな神様も拝み、御先祖様も大切にし、さらにカクレキリシタンの神様もあわせて拝むというのが一番自然な日本人の宗教感覚ではないか。(p198‐p199)

*1:「みんな ぱらいそさいくだ!」のあれ。文庫版『妖怪ハンター 地の巻』収録。

*2:2005年公開、小松隆志監督。阿部寛の無駄遣い。